7/26 マタイ福音書のイエス (第84回)~クリスチャンとは何か〜
- 平岡ジョイフルチャペル

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2026年7月26日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第84回)~クリスチャンとは何か〜」
聖書箇所 マタイ福音書 10章32〜33節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
32節 だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。 33節 しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。

32 Πᾶς οὖν ὅστις ὁμολογήσει ἐν ἐμοὶ ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων, ὁμολογήσω κἀγὼ ἐν αὐτῷ ἔμπροσθεν τοῦ πατρός μου τοῦ ἐν οὐρανοῖς ·
したがって,あらゆる誰であれ告白するであろう人は←私を←人間たちの前で/,告白するでしょう←この私も←その人を私の父の前で←諸天の中の.
32.1 「したがって,あらゆる誰であれ告白するであろう人は←私を←人間たちの前で」
32.1.1 「したがって」(ウーン)
前文でイエスによって語られた,諸天の父は人間の死後の審判を司る存在であるとともに,一羽のスズメに目を留めるように,クリスチャンの一人一人に目を留めている存在であるということを,承けている.
32.1.2 「あらゆる誰であれ告白するであろう人は」
(1)「あらゆる誰であれ」(パース・ホスティス)
これが逐語訳.ユダヤ教徒であれ非ユダヤ教徒であれ,誰でもということ.クリスチャンになるための資格は必要がない.善い人でも悪い人でも,賢い人でも愚かな人でも,肌の色が茶色の人でも黒色のひとでも白色の人でも,高貴な人でも下賎な人でも,ありとあらゆる人である.
(2)「告白するであろう」
「告白する」(ホモロゲオー)の原義は,「同じことを言う」「他人に同意する」「認める」.初期キリスト教会では,キリスト教用語として,「キリスト教信仰を公に,人々の前で,認める,告白する」の意味に用いられた.「こくる」という若者言葉がある.「告白する(特に恋愛感情を打ち明ける)」という意味.クリスチャンは,キリストへの熱い思いを告白するのである.未来時称であるのは,やがてキリスト信仰のゆえに,逮捕され,裁判にかけられるであろうことの伏線である.
(3)「クリスチャン」という呼称
英語の「クリスチャン」は,ギリシア語の「クリスティアノス」に由来する.「クリスティアノス」は,ラテン語の「クリスティアヌス」がギリシア語に音韻転化したものである.接尾辞の「イアノス」「イアヌス」は,「誰々に属する人」を意味する.山口組の「組員」,自民党の「党員」というのに似ている.つまり,「キリスト組の組員」,「キリスト党の党員」といった感じ.
「クリスティアノス」という呼称の由来については,相異なる二つの見解がある.一方は,キリスト教の外部の人がつけたあだ名.他方は,クリスチャンがみずから名のった自称,というもの.俗説としては,あだ名説が広まっているが,歴史学の見解としては,自称説がかぎりなく正しい.
重要な出典は,『使徒行伝』11章26節である.
καὶ εὑρὼν ἤγαγεν εἰς Ἀντιόχειαν. ἐγένετο δὲ αὐτοῖς καὶ ⸃ ἐνιαυτὸν ὅλον συναχθῆναι ἐν τῇ ἐκκλησίᾳ καὶ διδάξαι ὄχλον ἱκανόν, χρηματίσαι τε πρώτως ἐν Ἀντιοχείᾳ τοὺς μαθητὰς Χριστιανούς.
そして(バルナバスはパウロを)見つけて,アンティオキアに連れてきた.彼らに起こった←まるまる一年間教会(エックレーシア)に集まることと,かなりな人数の群衆を教えることが,そして自称することが←最初に←アンティオキアで/⇦その弟子たちがクリスティアノスと.
「自称する」と訳した「クレーマティゾー」は,自動詞である.「自ら名のる」という意味.キリスト信者がみずから「クリスチャン」と称した.ギリシア語文法としては,この理解しかありえない.アンティオキアのキリスト信者たちは,胸を張って「私たちはクリスチャンだ」と名のったのである.自分を「日本人」と名のる,自分を「アイヌ」と名のる,自分を「うちなーんちゅ」と名のる,と同じことである.
他方,あだ名説はギリシア動詞の歪曲的無理解に基づく詭弁である.この説は,自動詞を無理やり他動詞と読ませ,能動相を愚かにも受動相に仕立てあげている.
32.1.3 「私を」(エン・エモイ)
「エン・エモイ」の,「エン」は通常「in」を意味する前置詞.「エモイ」は「私」を意味する人称代名詞.単に「私を」と言うだけならば,「エン」は不要である.それなのに,なぜ「エン」なのか?アラム語の「ベ」の用法の影響だとする解釈もある.その場合の「ベ」は目的語を示す「ベ」だというのである.そういって簡単に済ますわけにもいかないように,私には思われる.もしかしたら,「エン・エモイ」は「私の中で」を意味するかもしれない.「中で」ということは,保護・安全・安心を含意する.乳飲み子が母の胸の中で,王が勇士たちの防御に守られて,北方の人たちが,頑丈で温かいログハウスに守られて,という感じ.クリスチャンを名のる人は,キリストに守られており,キリストの保護の中でキリスト教信仰を公に告白するのである.
32.1.4 「人間たちの前で」
「人間」と訳した「アントローポス」は,神(テオス)との対比で用いられることが多い.全能である神に対して非力の人間,全知である神に対して無知の人間,不死の神に対して死すべき人間.あなたがたは神に守られています.あなたを有罪にし量刑を科そうとするちっぽけな人間たちを恐れる必要はありません,と福音書記者マタイは,迫害下にある家の教会のクリスチャンたちに励ましの言葉を語っている.
32.2 「告白するでしょう←この私も←その人を私の父の前で←諸天の中の」
32.2.1 「告白するでしょう←この私も」
(1)「告白するでしょう」
この未来自称は,単純未来ではなく意思を含んでいる.「告白する意思をもっています」「告白する決心があります」という感じ.
(2)「この私も」
クリスチャンのキリストへの情熱に反応して,キリストも「この私も」と言って,情熱的な応答をしている.
32.2.2 「その人を」(エン・アウトー)
また「エン」が登場した.キリストを告白する人の中にキリストは宿っている.キリストはその人に同伴している.
32.2.3 「私の父の前で←諸天の中の」
(1)「私の父の前で」
真の裁判長は,イエスの父である.イエスの父は,慈父という印象である.神は慈愛に富む父である.
(2)「諸天の中の」
「天」(ウーラノス)は,神が住む天,あるいは神そのものと言ってよい.「諸天」とあるから,イエスの父である神の神々の中の神,至高の神という意味になる.クリスチャンを守護しているのは,ゼウスやアポロやアルテミスほどの神々であっても,比較にならないほど大きく力強い神である.
33 ὅστις δ᾽ ἂν ⸃ ἀρνήσηταί με ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων, ἀρνήσομαι κἀγὼ αὐτὸν ⸃ ἔμπροσθεν τοῦ πατρός μου τοῦ ἐν οὐρανοῖς.
しかし,誰であれ否認するであろう人は←私を←人間たちの前で/,否認するでしょう←この私も←その人を私の父の前で←諸天の中の.
33.1 「しかし,誰であれ否認するであろう人は←私を←人間たちの前で/」
33.1.1 「否認する」
「否認する」と訳した「アルネオマイ」は,「告白する」(ホモロゲオー)の対義語.「キリスト教信仰を公に,人々の前で,認めない,告白しない」という意味になる.キリストを公認する人には,キリストの約束の実現が確定している
33.2 「否認するでしょう←この私も←その人を私の父の前で←諸天の中の」
キリストを否認する人には,約束ではなく警告となる.死後の審判を恐れよということになる.



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