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6/28 マタイ福音書のイエス (第82回)~〈師弟であること〉の意味〜

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 6月29日
  • 読了時間: 5分

2026年6月28日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第82回)~〈師弟であること〉の意味〜」

聖書箇所    マタイ福音書 10章24〜25節   話者 三上  章


      [聖書協会共同訳]  

10章 24節 弟子超えるものではなく、は主人を超えるものではない。

25節 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう。」

24 Οὐκ ἔστιν μαθητὴς ὑπὲρ τὸν διδάσκαλον οὐδὲ δοῦλος ὑπὲρ τὸν κύριον αὐτοῦ.

ではありません←ある学生は/←の上では←その教師,また(ではありません←)ある奴隷が/←の上では←彼の主人.


24.1 「ではありません←ある学生は/←の上では←その教師」

24.1.1 「ではありません」

 マタイ福音書のイエスは,学友たちに向かって,はっきり否定している.思い違いをしてはいけないと言っている.

24.1.2 「ある学生」(マテーテース)

 「マテーテース」は,「学ぶ人」が原義.歴史的事実としてのイエスは,彼の求心力によって惹きつけられた人たちを,「マテーテース」と呼んだ.共に学ぶ人たちという意味で「学友」である.イエスは自分は先生なのだという自負をもっていなかった.しかし,ここでは「学生」である.マタイのイエスは,いや,イエスの口を借りたマタイは,教師に対する学生という区別をもっていた.普通の考え方といえばそうである.

24.1.3 「の上」(ヒュペル)

 ものごとには上と下がある.例えば,古代ローマ の軍艦(ガレー船).奴隷の漕ぎ手は,一番下.下級兵士は,その上.艦長は,一番上.上には上がある.人は,自分より上の存在があることを覚えていなければならない.自分が一番上などと思い誤ってはならない.

24.1.3 「その教師」

 「その」(トン)という定冠詞は,特定の教師を指す.マタイ教会では,特定の人物が教師として仰がれていた情況が推察される.もしかしたら,マタイ共同体では神学校の萌芽のようなものが存在しており,教育に秀でたクリスチャンが,先生あるいは師匠として指導していたかもしれない.


24.2 「また(ではありません←)ある奴隷が/←の上では←彼の主人」

24.2.1 「奴隷」(ドゥーロス)

 「ドゥーロス」が主人の上ではないことは,奴隷制のもとに成り立っていたローマ帝国時代では,明らかである.奴隷は主人の下である.ここでは,奴隷は,主イエス・キリストの奴隷としてのクリスチャンを意味しているかもしれない.

24.2.2 「主人」(キュリオス)

 そうすると「キュリオス」とは,主イエス・キリストということになる.たとえば,パウロは自分を主イエス・キリストの奴隷と認識していた.キリスト第一,自分は第二.キリスト優先,自分は後回しである.


25 ἀρκετὸν τῷ μαθητῇ ἵνα γένηται ὡς ὁ διδάσκαλος αὐτοῦ, καὶ ὁ δοῦλος ὡς ὁ κύριος αὐτοῦ. εἰ τὸν οἰκοδεσπότην Βεελζεβοὺλ ἐπεκάλεσαν, πόσῳ μᾶλλον τοὺς οἰκιακοὺς αὐτοῦ.

充分です←その学生にとって//ということが/←なる←のように←彼の教師,そしてその奴隷が(←なる)←のように←彼の主人.その家の主人をベエルゼブールと,彼らが蔑称したなら,どれだけいっそう,彼の家の人たちを(ベエルゼブールと蔑称するであろうか) .


25.1 「充分です←その学生にとって//ということが/←なる←のように←彼の教師」

25.1.1 「充分です←その学生にとって」

 「充分です」とは,特定の師匠の下で学ぶ特定の学生が到達する学習・修業の完成度のことを言っている.その学習・修業の期間について言うならば,まちまちである.アリストテレスはその教師プラトンの下で,20年近く学術の修業をした.

 『正法眼蔵随聞記』の著者懐奘も,その師匠道元の下で,20年近く修業した.ペトロはイエスと共に3年ほど学習したと思われる.3年といっても,密度の濃い3年である.

5.1.2 「//ということが」

 「充分」とは何かを以下に説明している.

25.1.3 「なる」

 動的な動きをしめす.成長するということ.

25.1.4 「のように←彼の教師」

 「のように」(ホース)とは,近づいていく,似た者になっていくということ.学生にできることはそこまで.教師自身になることはできない.教師を越えて,その上を行くことはできない.

 ラファエロやミケランジェロは,彼らの師匠ダ・ヴィンチにかなり近づくことができた.それで充分としなければならない.

25.2 「そしてその奴隷が(←なる)←のように←彼の主人」

 マタイ共同体の家の教会を示唆している.その家の教会に所属するそのクリスチャンは,主イエス・キリストへの信仰のために,無理解なユダヤ教徒たちから悪口雑言されていた.そもそも家の教会の主人・女主人自身が,悪口雑言されていた.その家の奴隷と自己認定しているクリスチャンは,むしろ悪口雑言されることを喜びとしなければならない.彼が所属する家の教会の主催者のようになることができるのだから.


25.3 「家の主人をベエルゼブールと,彼らが蔑称したなら」

25.3.1 「家の主人を」

 家の教会の主催者に対する風当たりは強かった.彼らの信仰は邪教・異端と見なされた.

25.3.2 「ベエルゼブール」

 彼らに投げつけられた差別用語である.意味不明な用語であるが,そもそもイエスもその差別用語を浴びた.「ベエルゼブール」の語義については,様々な推測がある.「蝿の神」「文句たらたらの主人」「糞の主」など.一番有力な推測は,カナンの神バールの,すなわち諸天の主の古名というもの.新約聖書では,ダイモニアの王子,ダイモニア軍の将軍,悪魔という意味で使われている.

25.3.3 「彼らが蔑称したなら」

 こういった蔑称を投げつける輩は誰か?イエスに敵対したパリサイ党員の流れを汲む,シナゴーグの指導者たちとその子分たちであろう.


25.4 「どれだけいっそう,彼の家の人たちを(ベエルゼブールと蔑称するだろうか) 」

25.4.1 「どれだけいっそう」(ポソー・マッルローン)

 福音書記者マタイは,イエスがベエルゼブールと蔑称されたことに比べるなら,

クリスチャンもそのように呼ばれるのは当然である.むしろ,それを誇りとしなさいと言っている.そういえば,使徒パウロも「疫病」(ロイモス)呼ばわりされた(『使徒行伝』24章5節).


 「バプテスト」という教派名も,外からつけられた渾名であると思われる.浸礼に執着する者という蔑称である.そういうふうに言われた初期の信徒たちは,ひるむことなく,胸を張って,「そうです.私たちは浸礼を大切にするバプテストです」と応答し,伝道に邁進した.

 結論.クリスチャンであることを誇りとして生きていこう!


 
 
 

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