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6/21 第1回「旧約聖書との対話」~なぜ今、旧約聖書を読むのか

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 1 日前
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第1回「旧約聖書との対話」~なぜ今、旧約聖書を読むのか

日髙嘉彦

本講話では、「旧約聖書との対話」という新しいシリーズの導入として、なぜ今、旧約聖書を読み直す必要があるのかを考える。キリスト教は「書物の宗教」と言われ、聖書を神の言葉として受け取り、その言葉に聞くことを信仰の中心に置いてきた。しかし、私たちが普段「聖書」と呼んでいるものは、初めから現在の形で存在していたわけではない。ローマ・カトリック教会、プロテスタント教会、東方正教会では聖書の範囲に違いがあり、私たちプロテスタント教会が用いている聖書の形も、キリスト教全体の歴史から見れば比較的新しいものである。したがって、「聖書とは何か」「聖書が神の言葉であるとはどういうことか」という問いは、改めて考えるべき大切な課題である。

この問いが今日とくに重要なのは、現代社会において聖書が政治や社会の文脈の中で語られる機会が増えているからである。中東情勢をめぐる議論の中では、アメリカの一部の福音派、とりわけキリスト教シオニズムと呼ばれる立場が、イスラエル支持と結びついて語られることがある。また日本においても、安倍元首相の暗殺事件をきっかけに、旧統一協会の問題が広く知られるようになった。そこでは、聖書の言葉を用いながらも、独自の教理体系によって人々を強く支配し、多額の献金や家庭崩壊の問題が生じていたことが明らかにされた。聖書は愛や平和、慰めや救いを語る書物として読まれてきた一方で、人を支配し、特定の思想や立場を正当化する道具として用いられる危険も持っている。

この問題は現代だけに限られない。20世紀前半のドイツでは、ナチスが台頭する中で、一部のキリスト者が聖書やキリスト教の言葉を用いてその政策を支持した。しかし同じ時代に、カール・バルトやディートリヒ・ボンヘッファーのように、聖書に基づいてナチスに抵抗した人々もいた。アメリカでも、聖書が奴隷制度や人種差別を正当化するために用いられた一方で、マーティン・ルーサー・キング牧師は聖書の言葉に支えられながら差別と戦った。同じ聖書が、ある時には権力を支えるために、またある時には権力に抵抗し、苦しむ人々を支えるために読まれてきたのである。

したがって、問題は聖書そのものを単純に危険視することではなく、聖書を読む人間、語る人間、権威として用いる人間の側にある。私たちは、自分が教えられてきた聖書観を、そのまま聖書そのものだと思い込みやすい。だからこそ、少し距離を置いて、聖書という書物を見つめ直す必要がある。近代以降の聖書学が示してきたように、聖書は一枚岩の書物ではない。そこには、時代も社会背景も異なる、さまざまな信仰の証言が集められている。外国人との結婚をめぐる記述や、剣をめぐる新約聖書の言葉のように、聖書の中には緊張関係にある証言も存在する。だからこそ、一つの言葉だけを取り出して自分の立場を正当化するのではなく、聖書全体の証言の中で慎重に読むことが求められる。

聖書は、初めから一つの教理を体系的に説明するために書かれた教科書ではない。むしろ、長い歴史の中で、神と人間との関係をめぐって語られてきた証言の集まりである。

今後のシリーズでは、第一に聖書の正典がどのように形づくられたのか、第二に完全な原典が残っていない中で聖書本文をどう考えるのか、第三にそれでもなお教会が聖書を神の言葉として読むとはどういうことなのかを考えていく。聖書を自分の都合のよい道具にするのではなく、その言葉の前に立ち止まり、聖書を問いながら、同時に聖書から問い直される。そのような「聖書との対話」の歩みを、このシリーズで共に考えていきたい。

 
 
 

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