2/8 マタイ福音書のイエス (第67回)~なぜ断食の掟に固執しないのか〜
- 平岡ジョイフルチャペル

- 6 日前
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2026年2月8日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第67回)~なぜ断食の掟に固執しないのか〜
聖書箇所 マタイ福音書 9章14〜15節 話者 三上 章

[聖書協会共同訳]
※下線は修正の余地があると思われる部分
14 その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15 すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。
以下は原文の解明に基づく三上の語順訳と講解です.

14 Τότε προσέρχονται αὐτῷ οἱ μαθηταὶ Ἰωάννου λέγοντες · Διὰ τί ἡμεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι νηστεύομεν πολλά, οἱ δὲ μαθηταί σου οὐ νηστεύουσιν;
そのとき,来る←イエスのところに←ヨハネの弟子たちが.いわく.「いったいなぜですか?⇦ほかでもなく私たちとパリサイ党員たちは,断食しています←多数回.しかし,あなたの弟子たちは,断食していません.」
14.1 「そのとき,来る←イエスに←ヨハネの弟子たちが」
14.1.1 「そのとき」(トテ)
話を直前に遡ると,パリサイ党員たちとイエスの問答である.パリサイ党員たちは,イエスが「収税吏(しゅうぜいり)・掟破りの輩と共に,食事をしている」のを目撃して,イエスに対してユダヤ教の掟に違反するという告発を行った.この告発に対して,イエスは才知ある返答をもってパリサイ党員たちを一蹴した.そのとき,である.息をつく暇もなく,新手が登場した.
14.1.2 「来る←イエスに←ヨハネの弟子たちが」
洗礼者ヨハネの弟子たちである.「来る←イエスに」ということは,彼らも食事会の家にいたということか?洗礼者ヨハネは,より正確には浸礼者ヨハネ.イエスも,もともとは浸礼者ヨハネの弟子であったが,やがてヨハネの教団から独立し,新しい一団を形成しつつあった.両者の違いは,ヨハネ教団は掟主義と禁欲主義の傾向が強いのに対して,イエスの一団は自由尊重と快楽受容を特徴としていた.このたびの,イエスが行った掟破りの振る舞いは,ヨハネの弟子たちによる非難を誘発した.
14.2 「いったいなぜですか?⇦ほかでもなく私たちとパリサイ党員たちは,断食しています←多数」
14.2.1 「いったいなぜですか?」(ディア・ティ)
11節でパリサイ党員たちが用いたのと同じ疑問副詞である.「ティ」(なぜ)だけでも足りるのに,「ディア」という前置詞が冠せられている.強調の疑問詞である.強い非難が込められている.
14.2.2 「ほかでもなく私たちとパリサイ党員たち」
嵩にかかった表現.ヨハネの弟子たちは,パリサイ党員たちとは異なる政党であるが,掟主義者であるという点では結託していた.自説の押し売りをしようとしている.
14.2.3 「断食しています←多数」
実情を伝えているかどうかは不明である.少なくとも,ユダヤ教徒たる者は断食すべし,そして「多数回」であるほど立派であるという信念は見てとれる.

西暦紀元1世紀に成立した『使徒的教父文書』のなかの「12使徒の教訓」(ディダケー)8章11節によると,クリスチャンは月曜日と木曜日,もしくは水曜日と金曜日に断食するのがよいとされている.どれくらい断食が遵守されていたかは不明である.いずれにせよ,義務ではなく個人の自由に委ねられていたと推量される.
14.2.4 断食とは
ユダヤ教において,そもそも断食とは聖なる行為である.市川 裕『貧しさの中の感謝:ユダヤ教の食と祭礼』によると,「人はパンだけで生きるのではない.神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのである」(申命記 8章3節).トーラー(神の言葉)に従って生きることが,真の意味で生きるということである.それを断食は人の心と体にたたき込んでくれる.清貧で「足るを知る」生活態度を忘れないようにしてくれる.
ミシュナーのなかで断食の規定を集めた「タアニート篇」には,秋になっても雨が降らないときに,旱魃の危機に対処するための公共の断食に関する規定が定められている.旱魃の原因は,創造主に対する人間の背信にあるとされ,罪を悔い改めることが要請された.共同体が一丸となって断食を行い,皆が心を合わせて罪を悔い改めることによって,創造主に雨乞いをおこなった.
なお,現代における断食の効用としてプチ断食が提言されている.プチ断食は消化器官に休息を与え,消化機能の改善を促進する. 消化器官が休息することで,腸の健康が向上し,便通が良くなることが報告されている.
14.3 「しかし,あなたの弟子たちは,断食していません」
14.3..1 「しかし」(デ)
「デ」という小辞は,「一方では・・・他方では」という対比文における「他方では」に相当する.ヨハネの弟子たちの宗教的信念によると,断食は敬虔である,そしてその回数が多いほど敬虔の度合いが上昇する.他方,断食しないことは不敬虔である.正しい信仰に悖る.
14.3.2 「あなたの弟子たちは,断食していません」
皆が楽しんでいる食事会に踏み込んで,こういう言い方はないだろう.食事会は断食会ではない.イエスと彼の学友たちだって,断食すべき時には断食したであろう.「断食していません」と決めつけてはいけない.
15 καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς · Μὴ δύνανται οἱ υἱοὶ τοῦ νυμφῶνος πενθεῖν ἐφ’ ὅσον μετ’ αὐτῶν ἐστιν ὁ νυμφίος; ἐλεύσονται δὲ ἡμέραι ὅταν ἀπαρθῇ ἀπ’ αὐτῶν ὁ νυμφίος, καὶ τότε νηστεύσουσιν.
そして言った←彼らに←イエスは.「まさかできるでしょうか?⇦その花嫁の部屋の息子たちは悲嘆することが/←彼らと共にその花婿がいる間に.しかし,来るでしょう←日々が←取り去られる←彼らから←その花婿が.そして,そのとき彼らは断食するでしょう」
15.1 「そして言った←彼らに←イエスは」
またもやイエスは才知ある言葉をもって,ヨハネの弟子たちによる非難に対応する.
15.2 「まさかできるでしょうか?⇦その花嫁の部屋の息子たちは悲嘆することが/←彼らと共にその花婿がいる間に」
15.2.1 「まさかできるでしょうか?」
絶対できない,という強烈な言葉である.ヨハネの弟子たちは,タジタジになったであろう.
15.2.2 「その花嫁の部屋の息子たち」
「その新婦の部屋」とは,おそらく新婦と新郎が最初の夜を過ごす寝室.「息子たち」とは,セム語的表現.「花婿の付き添い人たち」,あるいは「婚礼の客たち」.おそらく「婚礼の客たち」か.
15.2.3 「悲嘆する」
婚宴は喜び楽しむ場.悲嘆する場ではない.
15.2.4 「彼らと共にその花婿がいる間に」
婚宴の主役は花嫁と花婿である.ことさらに花婿が言及され,しかも定冠詞「ホ」がついている.「その花婿」は,イエスを象徴しているかもしれない.イエスを囲む食事会.それにまさる食事会はない.だれもがいつまでも続いてほしいと思ったであろう.

ロバート・バンクス 三上 章訳『紀元1世紀に教会に行く』によると,初期キリスト教会の家の教会では,ご馳走が振る舞われた.私たちの教会では,毎月第一日曜日に主の晩餐を行い,イエスとの会食を楽しんでいる.

15.3 「しかし,来るでしょう←日々が←取り去られる←彼らから←その花婿が」
15.3.1 「しかし,来るでしょう←日々が」
福音書記者マタイはイエスの口を借りて,自分の神学を語っている.
15.3.2 「取り去られる←彼らから」
やがてイエスは,彼を敬愛する人たちから強制的に取り去られるであろう.そして不当な裁判によって,磔刑に処せられるであろう.マタイはその成り行きを知っている.

15.4 「そのとき彼らは断食するでしょう」
イエスの磔刑を知ったとき,イエスの支持者たちはどれほど悲嘆したことであろう.断食もしたであろう.しかし,実は,誰もイエスを取り去ることはできない.イエスが死んだあとも,イエスは彼を敬愛する人々の心のなかに住みつづけた.今も私たちの心のなかにイエスは住み続けている.



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