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10/5 マタイ福音書のイエス (第53回)~〈似非宗教家〉を警戒せよ〜

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 10月6日
  • 読了時間: 7分

2025年10月5日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第53回)

       ~〈似非宗教家〉を警戒せよ〜

聖書箇所    マタイ福音書 7章15〜20節   話者 三上  章


          [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

15 「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


 以下は原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.

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15 Προσέχετε ἀπὸ τῶν ψευδοπροφητῶν, οἵτινες ἔρχονται πρὸς ὑμᾶς ἐν ἐνδύμασι προβάτων ἔσωθεν δέ εἰσιν λύκοι ἅρπαγες.

あなたがたは警戒してください←偽説教者たちに対して.彼らこそはやって来ます←あなたがたへと/←衣服で←羊たちの/しかし,内側は捕食する狼たちです.

15.1 「あなたがたは警戒してください←偽説教者たちに対して」

15.1.1 「あなたがた」

 福音書記者マタイは,イエスに付託して,マタイ教会のクリスチャンたちに警鐘を鳴らしている.

15.1.2 「偽説教者たちに対して」

 警戒すべき対象は,「偽説教者たち」(単数形は,プセウドプロペーテース)である.「プセウドプロペーテース」は,「プセウド」(偽り)と「プロペーテース」が結合したもの.「プロペーテース」の原義は,不明である.推測によると,「公言する人」「話す人」が有力である.マタイ教会の時点では,説教者に言及するものと思われる.したがって,「偽説教者」とは,マタイの観点からすると,マタイ教会の教説や儀式に合致しない,異端説教者ということになろう.反対に,その異端説教者の観点からすると,マタイこそいけ異端説教者だということになろう.そもそも,偽説教者ではない,本物の説教者なるものは,人間の世界に存在するのだろうか?

15.2 「彼らこそはやって来ます←あなたがたへと/←衣服で←羊たちの」

15.2.1 「彼ら」

 偽説教者を,今日の説教の題目では,似非宗教家と言い換えてみた.「似非」(えせ)とは,見かけはそれらしく見えるが,実はそうではないこと.似非宗教家たちは,マタイ教団に所属する諸々の家の教会を巡回していたと見える.

15.2.2 「衣服で←羊たちの」

 服装のことではない.容貌やスタイルである.かつてアメリカで,今は没落してしまったが,一時期,愚かな人たちを扇動したテレビ説教者たちを,想像すればよいかもしれない.

15.3 「しかし,内側は捕食する狼たちです」

 自分の空腹を満たすために,人々を捕食する狼.それが似非宗教家の正体であると,マタイは罵る.では,マタイの正体はどうなのだ?「捕食する」と訳した「ハルパクス」は,そういう意味である.クリスチャンたちを食い物にしていないだろうか?


16 ἀπὸ τῶν καρπῶν αὐτῶν ἐπιγνώσεσθε αὐτούς. μήτι συλλέγουσιν ἀπὸ ἀκανθῶν σταφυλὰς ἢ ἀπὸ τριβόλων σῦκα;

彼らの諸々の果実から/あなたがたは認識するでしょう←彼らを.まさか人々は収穫しないでしょうね?/諸々のイバラから諸々のブドウの房を/あるいは,諸々のトゲのある植物から諸々のイチジクの果実を.

16.1 「彼らの諸々の果実から/あなたがたは認識するでしょう←彼らを」

16.1.1 「彼らの諸々の果実から」

 マタイは,狼の捕食から連想して,果物の果実に飛躍する.「から」(アポ)は,認識の基準に言及する.「果実」(カルポス)とは,行動を意味する.いかなる基準から,似非宗教家を認識することができるだろうか?それは,彼らの行動によってである.容貌やスタイルに惑わされてはならない.

16.2 「まさか人々は収穫しないでしょうね?」

 今は秋.秋は収穫の秋.昨今,教会の庭で生育したブドウを,皆で堪能した.マタイは,果実の収穫に関する常識に訴える.

16.3 「諸々のイバラから諸々のブドウの房を」

 もちろん,ありえない.

16.4 「あるいは,諸々のトゲのある植物から諸々のイチジクの果実を」

 もちろん,ありえない.「諸々のトゲのある植物」の単数形は,「トリボロス」.それがが何であるかは同定することができない.トゲがあることは確かである.この程度の訳でお茶を濁しておいた.

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17 οὕτως πᾶν δένδρον ἀγαθὸν καρποὺς καλοὺς ποιεῖ, τὸ δὲ σαπρὸν δένδρον καρποὺς πονηροὺς ποιεῖ ·

そのように,あらゆる種類の良い木は,諸々の良い果実を結びます.しかし,腐った木は諸々の悪い果実を結びます.

17.1 「そのように,あらゆる種類の良い木は,諸々の良い果実を結びます」

17.1.1 「そのように」

 そう言われなくても,だれでもわかる.

17.1.2 「あらゆる種類の良い木は,諸々の良い果実を結びます」

 「あらゆる種類の良い木」.果物の木といっても,ありとあらゆる種類がある.

知り合いの庭の梨の木は,今年は豊作で,60個ほど収穫できたそうである.マタイの意味は,良い宗教家は良い行動の実を結ぶということである.

 私は,良い木に相当する恩師たちに恵まれたと思っている.哲学で三人.キリスト教学で三人である.キリスト教学の三人のうち二人は,折りに触れて紹介した.(1)松永 希久夫先生.東京神学大学名誉教授で学長を務められた.(2)Leon Morris 先生.Australian College of Theology (現Australian University of Theology) 所属のRidley College 校長を務められた.

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(3)今日は,Ron Rogers 先生を紹介したい.先生は,Australian College of Theology (現Australian University of Theology)  所属のBaptist College of New South Wales (現 Morling College) を校長を務められた.Rogers 先生は,私の学位論文の指導教官であったMorris 先生が定年退官になったので,その後を引き受けてくださった.それには伏線があった.先生はスイスのテューリヒ大学で研究していた時,日本バプテスト連盟の青野太潮先生と親しく交流しておられ,日本人に好印象をもっておられた.私と家族がメルボルンからシドニーに移るにあたり,先生は,1)市内の教会の牧師館に居住できるように手配してくださった.2)教会の専属説教者にしてくださり,生活費を保証してくださった.3)指導教官として,私の学位論文の進捗を親身に支援してくださった.たとえば,ドイツ語の研究書が必要だと申し上げると,私の目の前でテューリヒの友人に電話をし,速やかに取り寄せてくださった.4)私の学位論文の原稿が誤字・脱字がないように,専門のタイピストを調達してくださった.

 Rogers 先生や他の先生たちから受けた数々のご恩にたいして,どれだけ充分に報いることができたかを,反省することしきりである.

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17.2 「しかし,腐った木は諸々の悪い果実を結びます」

 悪い宗教家は悪い行動の実を結ぶ.これが日本にキリスト教が浸透しない最大の理由であると,私は思う.


18 οὐ δύναται δένδρον ἀγαθὸν καρποὺς πονηροὺς ποιεῖν, οὐδὲ δένδρον σαπρὸν καρποὺς καλοὺς ποιεῖν.

できません←良い木は/諸々の悪い果実を結ぶことが.また,(できません)←腐った木は/諸々の良い果実を結ぶことが.

18.1 「できません」が,文頭に置かれ強調されている.あたりまえである.

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19 πᾶν δένδρον μὴ ποιοῦν καρπὸν καλὸν ἐκκόπτεται καὶ εἰς πῦρ βάλλεται.

あらゆる種類の木は←良い果実をを結んでいない/切り落とされています.そして火の中に投げ込まれています.

19.1 「あらゆる種類の木は←良い果実を結んでいない/切り落とされています」

19.1.1 「切り落とされています」.現在時称である.今,目の前で起こっている.自業自得というものであろう.

19.2 「そして火の中に投げ込まれています」

19.2.1 「投げ込まれています」

 この動詞も現在時称.今,目の前で起こっている.自業自得である.似非宗教家の没落を,マタイは強調している.繰り返すが,ではマタイはどうなのか?この私はどうなのか,自己吟味が必要である.


20 ἄρα γε ἀπὸ τῶν καρπῶν αὐτῶν ἐπιγνώσεσθε αὐτούς.

してみると,彼らの諸々の果実から/あなたがたは認識するでしょう←彼らを.

20.1 「してみると」(アラ・ゲ)

 論理的帰結というよりは,くどい繰り返しである.

20.2 結論

 私を含む宗教家たちよ,「人の振り見て我が振り直せ」.

※ このことわざの由来は,江戸時代の教訓歌や道徳書にまで遡ることができる.一説では, 中国の『唐書』の「人を以て鑑と為す」が出典.別の説では,吉田兼好の『徒然草』第67段「人のことを見るに,これをかたわらに置いて,我がことにあてはめると,おもしろきこともなし」が出典.

 
 
 

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