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12/7 ダニエル書7章の「獣の幻」と解釈 ― 獣の支配を超えて ―

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 12 分前
  • 読了時間: 4分

北星学園大学教授・チャプレン 日髙嘉彦


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 ダニエル書7章は、後半に置かれた四つの幻の最初の章であり、ダニエル書全体の神学的転換点となる重要な箇所です。前半(2–15節)には、ダニエルが眠りの中で見た象徴的な幻が語られ、後半(16–27節)では、その意味を天使が解き明かします。特に後半部分では、幻が歴史と信仰の文脈の中でどのように理解されるのかが示されています。

 幻は、「天の四方」から風が吹き起こり、「大海」がかき立てられる情景から始まります。旧約聖書の世界において海は、秩序以前の混沌と恐れの象徴です。その海から四頭の獣が現れますが、これらは歴史の中で興る強大な支配勢力を象徴しています。

 第一の獣は獅子のようで翼を持ちますが、人間のようにされます。第二の獣は熊のようで、第三は豹のように描かれます。これらに続いて登場する第四の獣は、他の獣とは異なり、特定の動物になぞらえられないほど異様で、鉄の歯と青銅の爪を持つ、極めて暴力的な存在です。この第四の獣こそが、7章全体の中心的な関心となります。

 この獣には十本の角があり、その中から一本の角が現れて他の角を押しのけ、尊大な言葉を語ります。支配のあり方が、力と暴力、そして欺きに基づいていることが示されています。やがて、この角は聖者たちと戦い、勝利を収めるほどの力を持つものとして描かれます。

 ここで場面は地上から天上へと移り、「天上の裁判」が始まります。「日の老いたる者」と呼ばれる神が王座に着き、無数の天使に囲まれて裁きを行います。神の姿は、炎と光を伴いながらも、衣は雪のように白く、頭髪は羊毛のように清らかであり、獣たちの粗暴で冷たい描写とは対照的です。その前で「書物」が開かれ、第四の獣の行いが吟味されます。

 地上では尊大な言葉を語り続けていた角も、この裁きの前では力を失い、第四の獣は殺され、完全に滅ぼされます。他の獣たちも支配権を奪われます。ダニエル書はここで、歴史の最終的な裁きが地上の力関係によってではなく、神の正義によって行われることを明確に示しています。

 続いて、「人の子のような者」が天の雲に乗って現れ、神の前に導かれます。この者には、支配権、栄誉、王権が与えられ、その支配は一時的なものではなく、永遠に続くものです。最終的に、神の国は「いと高き方の聖者たち」に受け継がれます。

 幻を見たダニエルは心を乱され、その意味を天使に問い尋ねます。天使の解説では、まず結論として、「四頭の獣は地に興る四人の王であり、最終的には聖者たちが王国を受け継ぐ」と示されます。ここで重要なのは、獣の力が永続的なものではないという理解です。

 第四の獣については、詳細な説明が加えられます。この王国は他の王国とは異なり、全地を荒廃させ、聖者たちを疲弊させます。「十本の角」は複数の王を意味し、後から現れた王が三人を倒して権力を握るとされます。また、この王は「時と法を変えようと企み」、信仰生活の根幹を破壊します。

 この描写は、紀元前2世紀のアンティオコス4世エピファネスによるユダヤ教迫害を示していると理解されます。彼は神殿を冒涜し、安息日や祭り、律法の遵守を禁じました。聖者たちが彼の支配下に置かれる期間は「一年、二年と、半年」、すなわち三年半とされ、これは神殿再奉献までの歴史的期間と重なります。迫害は激しくとも、それは限定された期間にすぎないことが強調されています。

 なお、「人の子のような者」について、天使は直接的な説明を与えていません。聖書学的には、神の支配を地上に受け渡す天上的存在、すなわちイスラエルの守護天使ミカエルを指すと理解されることが多くあります。一方、キリスト教はこの表現を受けて、「人の子」キリストの到来を読み取ってきました。


結び ― 獣の歴史のただ中で

 ダニエル書7章の最大の特徴は、地上の支配者を「獣」として描いている点にあります。2章では王国は金属の像として描かれましたが、7章では支配の現実が、獰猛で本能的な獣として表現されます。そこには、権力が人間から人間性を奪っていくという鋭い洞察があります。

 この章は、信仰者に対して現実逃避を勧めるものではありません。むしろ、歴史を獣の支配として直視しながら、その背後で働く神の正義と希望を見据えるよう促しています。獣の力は一時的であり、最終的な裁きと王権は「日の老いたる者」である神のもとにあります。そして神の国は、迫害され、疲弊させられた聖者たちに委ねられるのです。ダニエル書7章は、力の論理が支配する世界の中で、信仰とは何に希望を置くことなのかを問い続けています。恐れと暴力が語る歴史のただ中でこそ、神の正義が最後に語られるということを、この章は静かに、しかし力強く告げているのです。

 
 
 

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