8/16 マタイ福音書のイエス (第87回)~キリストに倣うクリスチャン〜
- 平岡ジョイフルチャペル

- 8月16日
- 読了時間: 6分
2026年8月16日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第87回)~キリストに倣うクリスチャン〜」
聖書箇所 マタイ福音書 10章37〜39節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
マタイによる福音書 10章 37節 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。38 また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。39 自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。

37 ὁ φιλῶν πατέρα ἢ μητέρα ὑπὲρ ἐμὲ οὐκ ἔστιν μου ἄξιος · καὶ ὁ φιλῶν υἱὸν ἢ θυγατέρα ὑπὲρ ἐμὲ οὐκ ἔστιν μου ἄξιος ·
愛している人は←父親か母親を/以上に←この私,いません←私と均衡がとれて.そして,愛している人は←息子か娘を/以上に←この私,いません←私に均衡がとれて.
37.1 「愛している人は←父親か母親を/以上に←この私,いません←私に均衡がとれて.」
37.1.1 「愛している人は←父親か母親を」
「愛している」と訳した「ピレオー」は,「ピリア」(友愛)と同族の動詞である.現在時称なので,「現在愛している」「これからも愛し続ける」という意味合いをもつ.父母の恩がきわめて重いことと,父母への報恩の実践は,古今東西に知られている.
37.1.2 「以上に←この私」
あれ,と思う文言である.マタイ福音書のイエスは,父母へ愛を超えるものがあると言う.「ヒュペル」という前置詞は,「上に」という超越の意味合いをもつ.「この私」と訳した「エメ」は,「私」を強調する代名詞なので,そのように訳した.キリストが強調されている.福音書記者マタイの提示するイエスは,父母への愛を否定することはしていない.しかし,それより上に,キリストがあると言っている.その場合,キリストとは誰か?マタイにとっては,復活したイエス・キリストであろう.
キリストが上,父母が下といはどういうことか?意外に思われるかもしれないが,私の理解では,一人一人の中にキリストを見ることだと思う.一人ひとりが小さなキリストであるということである.
たとえば,ルルドのベルナデッタ.


蟻の街のマリアも然り.

鎌倉時代の一遍上人も然り.

一遍の下,時宗僧侶たちはハンセン病の人たちを助けた.彼女ら彼らは,一人ひとりにキリストを見た.もちろん,父母にも小さなキリストを見た.
つまり,このようなキリスト観にあっては,上下の区別は消滅する.キリストに賛同する人は小さなキリストであることは言うまでもなく,キリストに反対する人も可能的なキリストであり,キリストに無関心な人も,可能的なキリストである.
これがドイツのローマ・カトリックの神学者,カール・ラーナーの見解である.
ラーナーは,フライブルク大学で哲学者のハイデッガーに師事した.


彼は,非キリスト教徒(Non-Christians)の中に,キリストによる神の救済的恩寵を受けた者がいるという,「無名のキリスト者」論を説いた.第二バチカン公会議に大きな影響を与えた.
37.1.3 「いません←私と均衡がとれて」
それでは,キリストと均衡のとれた人とは誰か?「均衡がとれて」と訳した「アクシオス」は,二つ以上のものの力や重さや価値などがつり合っている状態を指す.日常語では「バランス(釣り合い)が取れている」とほぼ同じ意味で使われる.上述の人間観によると,ありとあらゆる人が,一人ひとりが,どのような人でも,キリストと均衡がとれた人ということになる.
37.2 「そして,愛している人は←息子か娘を/以上に←この私,いません←私に均衡いがとれて」
37.2.1 「息子か娘」
息子か娘をもっている人へのイエスの言葉である.息子とあなたの関係,あるいは,娘とあなたの関係,思い返すにどのようであったろうか?今,どのようであるのか?「悲しみも喜びも幾年月」ではないだろうか?肝要なのは,息子とは小さなキリスト,娘も小さなキリストである,ということである.
38 καὶ ὃς οὐ λαμβάνει τὸν σταυρὸν αὐτοῦ καὶ ἀκολουθεῖ ὀπίσω μου, οὐκ ἔστιν μου ἄξιος.
そして,でない人は/←受け取っており←スタウロスを←自分の,そして追い続いている←私の後から,いません←私に均衡がとれて.
38.1 「そして,でない人は」
マタイのイエスは,クリスチャンたちにとるべき行動を示唆している.
38.2 「受け取っており←スタウロスを←自分の」
38.2.1 「受け取っており」
定動詞の「ランバノー」は,「受け取る」という訳でよいが,受け取るためには,それまで後生大事に握っていたものを手放さなければならない.現在時称なので,「受け取り続ける」という意味合い.途中で放棄できない.

私ごとで恐縮であるが,イエスのこのお言葉によって,牧師になる決心が与えられた.私の場合は,殉教の決意をするということほどでなかったが,それなりの決意であった.私に立身出世を期待していた親や親族は,大学院で博士号を取得してからでも遅くないと,引き止めた.母は,自分に何か悪いところがあったのだろうかと,しきりに反省した.私も,神学校という得体のしれない学問紛いの宗教施設に入るのには,気が引けたが,とりあえず入った.入所後は,それでも,親は学費と生活費を定期的に送ってくれた.私を愛する親の愛は少しも変わることはなかった.
「スタウロス」は,十字架型とはかぎらない.いろいろな形式がある.いずれにせよ,自分のスタウロスを受け取るとは,それを背負って,刑場に向かう決心をすることである.

38.3 「そして,追い続いている←私の後から」
それでは,私はイエスの後に,脇目も振らずに,ひたすら追い続いてきたかというと,そうでもない.一端イエスにお預けした大学院進学の道を,哲学研究の道をイエスは開いてくださった.イエスは,哲学の探究をしながら,イエスの後を追い続けることをよしとしてくださった.

38.4 「いません←私に均衡がとれて」
それが,イエスとアクシオスなクリスチャン,イエスと均衡のとれたクリスチャンなのである.
39 ὁ εὑρὼν τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἀπολέσει αὐτήν, καὶ ὁ ἀπολέσας τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἕνεκεν ἐμοῦ εὑρήσει αὐτήν.
獲得する人は←プシュケーを←自分の,台無しにするでしょう←それを.そして,台無しにする人は←プシュケーを←自分の/←の故に(or のために)←この私,獲得するでしょう←それを.
39.1 「獲得する人は←プシュケーを←自分の,台無しにするでしょう←それを」
39.1.1 「獲得する人」
定動詞「ヘウリスコー」は,「見つける」が原義であるが,見つけたものを「獲得する」ことも意味する.ここでは,「獲得する」ことを.自分のものにし,固く握って離さないということ.私の場合でしたら,大学院に行くというかつての執着である.
39.1.2 「プシュケーを←自分の」
「プシュケー」は,「生命」あるいは「生活」あるいは「人生」を意味することができる.ここでは,「人生」.「自分の」(アウトゥー)に注目したい.イエスをそっちのけにして,自分の人生,自分が願望する人生に固執することを示唆する.
39.1.3 「台無しにするでしょう←それを」
定動詞「アポリューミ」の原義は,「完全に滅ぼす」,「殺す」である.ここでは「台無しにする」くらいの意味であろう.自分が執着する人生は,人生を台無しにすると,マタイのイエスはいっている.
39.2 「そして,台無しにする人は←プシュケーを←自分の/←の故に(or のために)←この私,獲得するでしょう←それを.」
39.2.1 「そして,台無しにする人は←プシュケーを←自分の」
イエス・キリストに価値を見いださない人には,クリスチャンの道は人生を棒に振り,台無しにするように見えるかもしれない.
39.2.2 「の故に(or のために)←この私」
しかし,この一句にご注目.「ヘネケン」という前置詞を「の故に(or のために)」と訳した.クリスチャンの人生は,キリストという果てしのない原因に始まり,キリストという果てしのない目的を目指す.何と壮大であろうか!
39.2.3 「獲得するでしょう←それを」
人生を台無しにするように見えるが,実は,人生を飛躍・躍動させるのである.



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