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2/2 マタイ福音書のイエス (第27回)~書物としての「セイショ」~

執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル平岡ジョイフルチャペル

2025年2月2日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第27回)~書物としての「セイショ」~」 

聖書箇所    マタイ福音書 5章17~18節   話者 三上  章



      [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

17 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。


 以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.


17 Μὴ νομίσητε ὅτι ἦλθον καταλῦσαι τὸν νόμον ἢ τοὺς προφήτας · οὐκ ἦλθον καταλῦσαι ἀλλὰ πληρῶσαι ·

あなたがたは決めつけてはいけません,⇦と/私は来た←破棄するために←「律法」または「預言者たち」を.私が来たのは破棄するためではなく,完遂するためです.


17.1 「あなたがたは決めつけてはいけません」

 イエスは学友たちに言う.「決めつけてはいけません」.「決めつける」と訳した「ノミゾー」は,「習慣的に用いる」が原義.そこから,当たり前・分かっている・常識・主観・推量が生まれる.そこには,広角的な観察と考察に基づく判断が欠如している.推し量る・思い込む・信じるの水準にとどまる.それゆえ,「決めつける」と訳した.たとえば,検察官といえば,犯罪捜査に関する学識と経験をもつ人であるが,そうであっても,時には冤罪の誤りに陥ることがある.人間は狭い見方をする存在である.


17.2 「⇦と/私は来た←破棄するために←「律法」または「預言者たち」を」

17.2.1 「⇦と/私は来た」

 イエスはどこからどこへ来たのか?マタイ物語に即するならば,ガリラヤ地方のナザレからガリラヤ地方の今いる山の上に来たことになる.しかし,福音書記者マタイは,イエスに付託して,神の息子イエスは天界から地上に降臨したという神学を述べている.その狙いは,「セイショ」の権威付けである.

17.2.2 「破棄するために←「律法」または「預言者たち」を」

 「破棄する」は,「でない」(メー)という否定辞で否定されている.イエスの目的は,破棄するためではない.何をかというと,「律法」または「預言者たち」である.狭義では,「律法」はユダヤ教聖書の最初の五つの書を,「預言者たち」はユダヤ教聖書の中の預言書群をさす.広義では,「律法」と「預言者たち」で,ユダヤ教聖書全体をさす.これをプロテスタントは「旧約聖書」と呼び習わして来た.

17.2.3 「聖書」は「セイショ」

 ここでいわゆる「聖書」について一言.私にとってこの書物は,世界の古典名著の一つである.神棚に上げて拝むような神的権威ではない.それゆえ,「セイショ」という.そうであっても,卓越した古典であることに変わりはない.

④ 17.2.4 聖書の権威


 アメリカ大統領の就任式では,聖書に手を置いて宣誓する慣例がある.今でもアメリカでは,聖書は大きな存在である.ところで,先頃の1月20日の就任式で,トランプ大統領は右手を上げて宣誓したが,聖書には手を置かなかった.これに関してはさまざまな憶測が流れている.

⑤ 17.2.5 日本人にとって聖書に匹敵する書物はあるだろうか?


 かつては『論語』がそれであった.渋沢栄一の「論語と算盤」を想起する.『論語』が読まれなくなって,久しい.私は,残念であると悔いるだけではなく,自分なりに『論語』を復権する努力をしてきている.

17.2.6 「旧約聖書」という呼称


 ユダヤ教聖典のことを,プロテスタントの人たちは,「旧約聖書」と呼ぶ.これは西暦2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である.古い契約の書が旧約聖書であって、新しい契約が新約聖書という意味である.『旧約聖書』という表現は,サルディスのメリトン(190年)に見られ,アレクサンドリアのクレメンスがよく用いている.しかし,これはキリスト教の観点からであって,ユダヤ教の人たちに対しては公平性を欠く.

17.2.7 ユダヤ教聖書


 ユダヤ教では「タナハ」(TNKh)または「ミクラー」と呼ぶ.TNKhは,「律法」(Torah)・預言者(Nebiim)・「諸書」(Khethubiim)の頭文字をとったもの.「ミクラー」は,「読まれるべきもの」という意味.

17.2.8 狭義の「律法」と「預言者」の構成

 本日は「律法」について学ぶ.「預言者」については,次回に学ぶ.

17.2.9 「律法」


 紀元2世紀以降,「モーセ五書」とも呼ばれるようになった.内容は,「レビ記」は宗教的掟を収録しているが,「律法」の大部分は物語である.たとえば,「創世記」.世界と人間の創造,ノアの洪水,アブラハムとサラの生涯,ヨセフの生涯など,興味をそそる物語で満載.それらの読誦を通して,聴衆は,広い意味での律法を学習することができるようになっている.広い意味での,というのは,宗教的掟だけではなく,倫理・道徳・礼儀といった人間形成と社会生活に不可欠な指針を広範に含んでいるからである.

 トーラーと並んで民衆の生活を指導した法に,誡命(デバーリーム・ホーク),法律・判例(ミシュパーティーム),命令(ミツバー)などがあった.その広範性の点で,「律法」と訳したギリシャ語の「ノモイ」の単数形「ノモス」は,一致している.「律法」は神から与えられたものであるという認識においても,ユダヤ教の「トーラー」とギリシャ思想の「ノモス」は合致している.

17.2.10 「セイショ」の正典化

 ところで,いつ「律法」は「聖書」になったのか?ユダヤ教団では最も重要な「律法」は前4世紀中に,続いて「預言者」が前3世紀中ごろまでに正典化され,「諸書」は一部の書物についての議論を残しつつ,前2世紀中にはだいたい公認されたと考えられている.


 ヘブライ原典に属する書物が,すべて最終的に正典として公認されたのは,紀元1世紀末に,ヤムニア(ヤブネ)で開かれた,ラビたちの会議においてであったと考えられている.ローマに対するユダヤ人の抵抗(第1次ユダヤ戦争,66-73)は鎮圧され,ユダヤ教団の拠点であったエルサレムとその神殿は破壊されたばかりでなく,ユダヤ人の立入りが禁止された.このような状況に置かれたユダヤ教徒の指導者たちは,唯一依拠すべき正典の最終決定を迫られた.

 ラビたちはこの会議での正典の決定に伴い,当時キリスト者が使用していた《七十人訳ギリシャ語聖書》に含まれている,他の文書(アポクリファ)を正典から排除した.後発のキリスト教は,ユダヤ教に先駆けて,新約聖書の正典化を進めていた.それに触発されて,ユダヤ教聖書の正典化が促進されたという面がある.


17.3 「私が来たのは破棄するためではなく完遂するためです」

17.3.1 「破棄する」

 生前のイエスは,「律法」を破棄する者であると,宗教法の司法者たちによって決めつけられていた.

17.3.2 「完遂する」

 そういう決めつけに対して,マタイのイエスは,他でもなく自分は「律法」を完遂する者である,と主張する.「完遂する」と訳した「プレーロオー」は,「いっぱいにする」が原義.いわば,コップにあふれるほどに注ぐ.「律法」の文言を口先で唱えるのではなく,身をもって完全に成し遂げる.「律法」の完遂である.


18 ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν, ἕως ἂν παρέλθῃ ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ, ἰῶτα ἓν ἢ μία κεραία οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου, ἕως ἂν πάντα γένηται.

アメーン,なぜなら,私は言います→あなたがたに,去るであろうまで←天と地が,イオータまたは一つのケライア(角)が去ることはありません,すべてが生ずるであろうまで.


18.1 「アメーン,なぜなら,私は言います→あなたがたに」

 「アーメン」は「真実に」「本当に」という意味.マタイのイエスの本気度が表れている.命さえ惜しまないという勢い.

18.2 「去るであろうまで←天と地が,イオータまたは一つのケライア(角)が去ることはありません」

18.2.1 「去るであろうまで←天と地が」



 ストア派の世界燃焼(エクピュローシス)を連想させる文言である.それによると,世界存在は,周期的に創造と消滅を繰り返している.比較宗教学者のエリアーデは,「大火によってこの世界が終りを告げ,かつ善が無事に遁れ出るとの神話が,イラン起源のものだ思われる」と述べている.福音書記者マタイほどの教養人が,この程度の知識をもっていたとしても不思議ではない.

18.2.2 「イオータまたは一つのケライア(角)が去ることはありません」


 「イオータ」は,ギリシャ語アルファベットの中で最小の字.「ケライア(角)」はヘブライ語アレフベートに散見される,それこそ「一画」.「律法」の文言を一字一句ゆるがせにせず,完全に実行しようという,マタイのイエスの強い意志と覚悟が見て取れる.


18.3 「すべてが生ずるであろうまで」



 「すべて」とは,「律法」が内包する「恕」の精神であると,私は解釈する.「恕」とは「相手を思いやって許す」こと.直解主義の表明ではない.誤っている通念を打ち破る,真実のほとばしりである.たとえば,イエスは安息日の作業禁止の掟に抗い,医療的作業を行った.空腹の学友たちの農業的作業に同意した.宗教的不浄の掟に抗い,レプラの人に触れた.「罪人」と交際した.食前の手洗いの掟に従わなかった.それらは,「(律法)のすべてが生じる」ことにほかならない.無法者のレッテルを貼られたイエスは,実は筋金入りの徹底した遵法者であった.








 
 
 

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