10/26 マタイ福音書のイエス (第55回)~〈イエスの言葉を行う〉を検討する〜
- 平岡ジョイフルチャペル

- 10月26日
- 読了時間: 8分
2025年10月26日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第55回)
~〈イエスの言葉を行う〉を検討する〜
聖書箇所 マタイ福音書 7章24〜28節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
※下線は修正の余地があると思われる部分
24 「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。
以下は原文の解明に基づく三上の私訳と講解.

24 Πᾶς οὖν ὅστις ἀκούει μου τοὺς λόγους τούτους καὶ ποιεῖ αὐτούς, ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ φρονίμῳ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ⸃ ἐπὶ τὴν πέτραν.
したがって,だれでも←わたしのこれらの言葉を聞いている人は,そしてそれらを行っている人は,例えられるでしょう←賢明な男性に//←だれであれ←自分の家を建てた←その岩の上に.
24.1 「したがって,だれでも←わたしのこれらの言葉を聞いている人は,そしてそれらを行っている人は」
24.1.1 「したがって」(ウーン)
5章から始まった山上の説教の結論である.
24.1.2 「だれでも」(パース)
マタイのイエスはマタイ教会のクリスチャンたちに語りかけている.「パース」は「どのような種類の人でも」や「各自が」という意味合いをもつ.入信直後の人も,入信してから長い人も.学識の乏しい人も,学識の豊かな人も.貧者であれ富者であれ.男性であれ,女性であれ,である.区別・差別はない.
24.1.3 「わたしのこれらの言葉を聞いている人は」
なかには居眠りする人や,聞き流す人もいたかもしれないが,聴衆の多くはイエスの言葉を熱心に聞いていた.イエスの言葉は,山上の垂訓をはじめとして,黄金律や主の祈りなど珠玉の掟を含んでいた.それらはユダヤ教の掟に似ているが,後者を凌駕することを意図するものである.
24.1.3 「そしてそれらを行っている人は」
行うこと,実行!それをマタイは強調する.マタイ独自の掟を遵守しなさいと言っている.やや教条主義の匂いがしないでもないが,マタイ教会の多くのクリスチャンたちは,「イエスの言葉」を素直に受け入れ,それらの遵守に努めたであろう.他方,マタイ風のドグマを窮屈に感じ,もっと自由な生き方を求めたクリスチャンたちが,いたとしても,不思議ではない.
24.2 「例えられるでしょう←賢明な男性に//←だれであれ←自分の家を建てた←その岩の上に」
24.2.1 「それは例えられるでしょう」
マタイのイエスは,話が広く民衆によって理解されるために,日常卑近の例えを使用する.仏教における釈尊や,ギリシア哲学のおけるソクラテスもとった方法である.
24.2.2 「賢明な男性」
後悔のないように,あらかじめ熟慮検討した上で判断を下す人を指す.「男性」ではなく「女性」であってもよい.
24.2..3 「だれであれ←自分の家を建てた←その岩の上に」
「賢明な男性」を修飾する.個人宅の建築である.どの程度の規模かはわからないが,岩の上というのだから,しっかりした地盤である.賢明な選択をした.「岩」に「その」(テーン)という定冠詞がついている.特定の岩をさす.それは何か?
25 καὶ κατέβη ἡ βροχὴ καὶ ἦλθον οἱ ποταμοὶ καὶ ἔπνευσαν οἱ ἄνεμοι καὶ προσέπεσαν τῇ οἰκίᾳ ἐκείνῃ, καὶ οὐκ ἔπεσεν, τεθεμελίωτο γὰρ ἐπὶ τὴν πέτραν.
そして雨が降りました.そして数々の流れが来ました.そして数々の風が吹きました.そしてそれらはあの家に襲いかかりました.そしてそれは倒れませんでした.なぜならそれは岩の上に土台を据えてあるからです.
25.1 「そして雨が降りました.そして数々の流れが来ました.そして数々の風が吹きました.そしてそれらはあの家に襲いかかりました.」
そういう災害を,マタイ教会のクリスチャンたちは目の当たりにしていた.豪雨に苦しむ私たち日本人にも,よくわかる話である.「数々の風」は,台風がこちらからもあちらからも,やって来る状況を連想させる.
25.2 「そしてそれは倒れませんでした.なぜならそれは岩の上に土台を据えてあるからです」
「イエスの言葉」という堅固な土台の上に人生を築くならば,その人生は倒壊しない,とマタイは言いたい.なるほど.しかし「イエスの言葉」にかぎる必要はない.ソクラテスの教えや釈尊の教えやムハンマドの教えでもよい.そういった世々の賢者たちを指針として,自らの人格を形づくる人は,幸いである.
26 καὶ πᾶς ὁ ἀκούων μου τοὺς λόγους τούτους καὶ μὴ ποιῶν αὐτοὺς ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ μωρῷ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ⸃ ἐπὶ τὴν ἄμμον.
そしてだれでも←わたしのこれらの言葉を聞いている人は,そしてそれらを行っていない人は,例えられでしょう←愚鈍な男性に//←だれであれ←自分の家を建てた←その砂地の上に.
26.1 「そしてだれでも←わたしのこれらの言葉を聞いている人は,そしてそれらを行っていない人は,例えられでしょう←愚鈍な男性に」
26.1.1 「そしてだれでも←わたしのこれらの言葉を聞いている人は,」
ここまでは上記の賢者と同じである.その先が人生の分かれ目となる.
26.1.2 「そしてそれらを行っていない人は,例えられでしょう←愚鈍な男性に」
聞いた掟を行っているのか,行っていないのか,である.行っていない人は「愚鈍な男性」に例えられる.「愚鈍な男性」は,先ほどの「賢明な男性」の対義語である.「愚鈍な人とは」,軽々に安価な砂地を購入し,とにかく好みの家を建てたい,災害対策のことなどは,少しも顧慮しない.性急な判断のため後悔するはめになる人である.
26.1.3 「だれであれ←自分の家を建てた←その砂地の上に.」
「その砂地の上に」の「砂地」に,やはり「テーン」という定冠詞がついている.マタイは特定のことを考えている.「イエスの言葉」ではない土台の上に人生を構築すること.マタイ教会の敬虔なクリスチャンたちとっては,もってのほかであろう.もっと広く考えると,憶測,流言,無教養,無知,それが砂地である.

27 καὶ κατέβη ἡ βροχὴ καὶ ἦλθον οἱ ποταμοὶ καὶ ἔπνευσαν οἱ ἄνεμοι καὶ προσέκοψαν τῇ οἰκίᾳ ἐκείνῃ, καὶ ἔπεσεν, καὶ ἦν ἡ πτῶσις αὐτῆς μεγάλη.
そして雨が降りました.そして数々の流れが来ました.そして数々の風が吹きました.そしてそれらはあの家に打ちつけました.そしてそれは倒れました.そしてそれの倒壊は甚大でした.
27.1 「そして雨が降りました.そして数々の流れが来ました.そして数々の風が吹きました.」
ここまでは先ほどと同じ.災害は賢者にも愚者にもやって来る.
27.2 「そしてそれらはあの家に打ちつけました.」
先ほどは,「襲いかかった」(プロスピープトー).「プロスピープトー」は「プロス」(〜に対して)と「ピープトー」(倒れる)の合成語.今日流に言えば,空爆したという感じ.他方,ここでは「打ち付けた」(プロスコプトー).「プロスコプトー」は「プロス」(〜に対して)と「コプトー」(打撃する)の合成語.土石流の猛威を連想させる.
23.3 「そしてそれは倒れました.そしてそれの倒壊は甚大でした.」
無知迷妄という,砂地のような土台の上に人生を構築するならば,その人生は早晩倒壊する.しかもその倒壊は甚大であり,再建不可能である,とマタイは言いたい.それはそうだが,そこまで言い切ってよいのか?どれほど落ちこぼれた人であっても,再起の機会はあるのではないだろうか?
28 Καὶ ἐγένετο ὅτε ἐτέλεσεν ὁ Ἰησοῦς τοὺς λόγους τούτους, ἐξεπλήσσοντο οἱ ὄχλοι ἐπὶ τῇ διδαχῇ αὐτοῦ ·
こうして,イエスがこれらの言葉を終えた時,数々の群衆は驚嘆しました←彼の教えのゆえに.
28.1 「こうして,イエスがこれらの言葉を終えた時,数々の群衆は驚嘆しました」
聴衆の反応は,起立・拍手喝采というところか.
28.2 「彼の教えのゆえに」
福音書記者マタイはイエスの言葉ならぬ,マタイ教会のユダヤ教風の掟を自画自賛している.その気持ちはわかるが,人々が驚嘆する教えは,古今東西にたくさんある.世界の古典名著がそれである.
29 ἦν γὰρ διδάσκων αὐτοὺς ὡς ἐξουσίαν ἔχων καὶ οὐχ ὡς οἱ γραμματεῖς αὐτῶν.
なぜなら,彼は彼らを教えていました←まさに力をもっている人として,そしてまさに彼らの中の書記たちのようにではなく.
29.1 この一文は,福音書記者マタイが伝承に加えた編集句である.
29.2 「なぜなら,彼は彼らを教えていました」
マタイのイエスは,教える人である.マルコのイエスとは異なる.マルコのイエスは援助する人・支援する人である.
29.3 「まさに力をもっている人として」
「力をもっている人」とはどういう人か?アメリカ福音派の指導者であったビリー・グラハムのような人か?堂々たる容貌,力強い説教,わかりやすさ,宗教的説得力.そうではないと思う.教えることは重要であるが,限界もあることを憶えていなければならない.人々が切実に必要としているのは,基本的人権の土台をなす衣食住の充足,快適な暮らしである.そして他宗教と無宗教に対する寛容である.
29.4 「まさに彼らの中の書記たちのようにではなく」
イエスの聴衆の中には書記たちがいた.マタイ教会の時点でいえば,シナゴーグ共同体の指導者たちである.「書記たちのように」であってはいけないとマタイは言う.そのように語るマタイこそ,また彼に同意する人たちこそ,わたしを含めて,実は「書記たち」なのではないだろうか?



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