2024年1月28日 主日礼拝
聖書講話 「マルコ福音書のイエス (第146回)
~告訴者たちの奥の手〈バラバス〉〜」
聖書箇所 マルコ福音書 15章6〜11節 話者 三上 章
聖書協会共同訳
[下線は改善の余地があると思われる部分]
6 ところで、祭りの度に、ピラトは、人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバと言う男がいた。8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9 ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。11 しかし、祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動した。
以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解である.
6 Κατὰ δὲ ἑορτὴν ἀπέλυεν αὐτοῖς ἕνα δέσμιον ὃν παρῃτοῦντο.
(各)祭り毎に,彼(ピラトゥス)は釈放していた←彼ら(ユダヤ人たち)に
←一人の囚人を←ところの←彼ら(ユダヤ人たち)が願った.
6.1 「祭り毎に」
「祭り」(ヘオルテー)に冠詞がついていない.一般的に祭りと言っている.いかにも取ってつけた感じがする.ユダヤ教の祭りといっても,いろいろある.どの祭りなのか?文脈から見るなら,過越祭か.
6.2 「彼(ピラトゥス)は釈放していた←彼ら(ユダヤ人たち)に」
6.2.1 「彼(ピラトゥス)は釈放していた」
聖書以外の同時代の文献(ヨセフスなど)によると,ピラトゥスは冷酷な人間であるが,ここでは軟弱な人間として描写されている.2〜5節の時点では,ピラトゥスはまだ判決を下していない.ここでは早くも恩赦の話に転じている.正典福音書以外に恩赦の慣習への言及はない.
6.2.2 「彼ら(ユダヤ人たち)に」
彼らの中には,祭司長たちによって扇動された人たちも含まれる.福音書記者マルコは,そういう人たちに迎合するピラトゥス像を描くことによって,イエスを殺そうとしているユダヤ教陣営を暗に非難している.
6.3 「一人の囚人を←ところの←彼ら(ユダヤ人たち)が願った」
ユダヤ人たちの側からローマの為政者に恩赦を願ったという.ありえない話である.恩赦は為政者の側から被支配者に与えるものである.
7 ἦν δὲ ὁ λεγόμενος Βαραββᾶς μετὰ τῶν στασιαστῶν δεδεμένος οἵτινες ἐν τῇ στάσει φόνον πεποιήκεισαν.
いた←そのいわゆるバラバスが←その暴動者たちと共に拘置されていた者←ところの←(彼らが)暴動の中で殺人をおかした.
7.1 「いた←そのいわゆるバラバスが」
「バラバス」は正典福音書にしか登場しない.宗教説話的伝承が創作した架空の人物であろう.バラバスに「その」という定冠詞と「いわゆる」という形容詞が付いている.あだ名なのかもしれない.「バラバス」はギリシア語.アラマイ語にすると「バル・アバ」(בר אבא, bar abba)とも読むことができる.すなわち「アバの息子」「アバ」関して主に二つの解釈がある.1)「父=先生=ラッビ」2)アブラハムの略字.一般には前者「父の息子」説が有力である.イエスよりもバラバスというあだ名のこの人物のほうが,「父なる神の息子」として人気を博していた.しかし,それはあべこべだとマルコは言いたい.
7.2 「その暴動者たちと共に拘置されていた者」
7.2.1 「その暴動者たち」
国家騒乱罪(スタシス)をおかした者たち.「その」という定冠詞が付いている.架空の物語に真実性を与えるために付けたか.歴史的事実の記述ではない.
7.2.2 「と共に拘置されていた者」
バラバスは暴動者たちと共に拘置されていた.おそらく彼は首謀者.
7.3 「ところの←(彼らが)暴動の中で殺人をおかした」
直接には「暴動者たち」に掛かる.もしバラバスが彼らの首謀者であるなら,殺人の主たる責任は彼にある.しかしマルコは,バラバスが殺人をおかしたとは言わない.恩赦の余地を作っておくためか.
8 καὶ ἀναβὰς ὁ ὄχλος ἤρξατο αἰτεῖσθαι καθὼς ἐποίει αὐτοῖς.
そして(ピラトゥス公邸に)上った後←その群衆が,願い始めた←彼(ピラトゥス)が彼らにしてきたとおりに(することを).
8.1 「(ピラトゥス公邸に)上った後←その群衆が」
8.1.1 「(ピラトゥス公邸に)上った後」
「上った」とは,おそらくピラトゥス公邸に上った.ローマ総督の公邸は高台にあったと推定される.あるいはヘロデ公邸かもしれない.ユダヤ地方がローマの直轄属州になった紀元6年以降,ローマ総督はそれを自由に使用することができた.
8.1.2 「その群衆が」
いきなり裁判の場面に「その群衆」が登場する.2〜5節では登場人物は,ピラトゥス,イエス,祭司長たちだけに限定されていた.物語であるから,好きなように人物の数を増やすことができる.「群衆」に「その」という定冠詞が付いている.祭司長たちに扇動されたそのユダヤ人群衆ということであろう.
8.2 「願い始めた←彼(ピラトゥス)が彼らにしてきたとおりに(することを)」
被支配者であるユダヤ人陣営のほうから,為政者であるローマ帝国総督代官に恩赦を願うなどとは,歴史としてはありえない話である.しかも,彼らの多くはイエスを支持していたはずである.中には血気にはやる人たちもいて,イエスの処刑が執行されるものなら,ユダヤ教支配体制に対して暴動を起こしかねない勢いであった.それなのに,今はむしろイエスの処刑を求める方向に転じている.このようにコロコロ変わるのが民衆というものなのかもしれない.
9 ὁ δὲ Πιλᾶτος ἀπεκρίθη αὐτοῖς λέγων· Θέλετε ἀπολύσω ὑμῖν τὸν βασιλέα τῶν Ἰουδαίων;
ピラトゥスは答えた←彼ら(その群衆)に.曰く.「諸君は欲しているのか?←私が釈放することを←諸君に←ユダヤ人たちの王を」
9.1 「ピラトゥスは答えた←彼ら(その群衆)に」
間抜け風に描かれているピラトゥスは,恩赦を求めるその群衆に対してどのように対応したか?政治家としての手腕が試される時である.
9.2 「諸君は欲しているのか?←私が釈放することを←諸君に←ユダヤ人たちの王を」
9.2.1 「諸君は欲しているのか?」
この質問は変である.恩赦が祭りの慣習であり,民衆が恩赦を求めているのであれば,まず先に民衆に要望を語らせるのが順当であろう.それなのにピラトゥスのほうから先に自分の考えを提案しようとしている.しかも恩赦の対象となる人たちとしては,バラバスやイエスの他にも大勢いたのに,特定の個人に限定している.
9.2.2 「←私が釈放することを←諸君に」
「私」すなわちピラトゥスは,イエスの釈放が妥当であると考えている.他方,「諸君」すなわちそのユダヤ人群衆は,バラバスの釈放を欲している.ピラトゥスは民心の性質を読み誤っている.
9.2.3 「←ユダヤ人たちの王を」
ピラトゥスはイエスの名前の代わりに,この呼称を使用する.ピラトゥスにとってイエスは,祭司長たちが黙示的メシアであるとかないとかいう,宗教上の泥仕合に関わる人物にすぎない.ローマ帝国に対する革命家でなくテロリストでもない.他方,バラバスは国家騒乱の行為の首謀者である.当然,イエスが恩赦に妥当する.そこがピラトゥスの甘いところである.マルコはピラトゥスを愚者として描写したい.
10 ἐγίνωσκεν γὰρ ὅτι διὰ φθόνον παραδεδώκεισαν αὐτὸν οἱ ἀρχιερεῖς.
なぜなら彼は知っていた/ことを←妬みのゆえに引き渡した←彼を←祭司長たちは.
10.1 「なぜなら彼は知っていた」
10.1.1 「なぜなら」
ピラトゥスが,いわゆる「ユダヤ人たちの王」イエスの釈放を提案する理由.
10.1.2 「彼は知っていた」
何を根拠にそのように言えるのか?むしろマルコはピラトゥスに付託して,「私は知っている」と言いたいのであろう.
10.2 「ことを←妬みのゆえに引き渡した←彼を←祭司長たちは」
10.2.1 「妬みのゆえに」
これをマルコは強調した.祭司長たちからすると,イエスの運動のほうへ多くの人々が流出していった.自分たちの面子は丸つぶれ.それが「妬み」(プトノス)というもの.妬みは悪意に転じ,ついには殺意に至る.
10.2.2 「引き渡した←彼を←祭司長たちは」
マルコは「引き渡した」を強調している.こともあろうにローマ帝国の裁判にイエスを引き渡した.祭司長たちであろう人たちが.いくら何でも汚いやり方であると,マルコは言いたい.聖職者とはいっても,見掛け倒しにすぎない場合もある.
11 οἱ δὲ ἀρχιερεῖς ἀνέσεισαν τὸν ὄχλον ἵνα μᾶλλον τὸν Βαραββᾶν ἀπολύσῃ αὐτοῖς.
祭司長たちは扇動した←その群衆を/ように←むしろバラバスを彼(ピラトゥス)が釈放する←彼らに.
11.1 「祭司長たちは扇動した←その群衆を」
11.1.1 「扇動した」
ギリシア語は「アナセイゾー」.「アナ」という強調の前置詞と「セイゾー」(扇動する)からなる合成動詞.「多いに扇動する」が原義.祭司長たちは,その判断力が不安定な群衆に対してユダヤ教至上主義の感情を煽った.それだけではなく,買収という手段も用いたと想像することもできる.
11.2 「ように←むしろバラバスを彼(ピラトゥス)が釈放する←彼らに」
その群衆の中には,バラバスを革命家のごとくに崇拝する人たちもいたと想像することもできる.いずれにせよ歴史的にはまずありえない創作話である.福音書記者マルコの,イエス裁判劇を印象的なものに作り上げたいという気持ちは,わからないでもない.イエス裁判の実状については知る由もないが,私個人の印象としては,それはもっと単純で形式的なものにすぎなかったのではないかと思われる.
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