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1/4 マタイ福音書のイエス (第63回)~脳卒中についての迷信を駁(ばく)す〜

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 1月4日
  • 読了時間: 6分

2026年1月4日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第63回)

        ~脳卒中についての迷信を駁(ばく)す〜

聖書箇所    マタイ福音書 9章1〜3節   話者 三上  章


      [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分のに帰られた。2 すると、人々が体の麻痺したに寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスは彼らの信仰を見て、その人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。3 すると、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。

 以下は原文の解明に基づく三上の語順訳と講解です.

1 Καὶ ἐμβὰς εἰς πλοῖον διεπέρασεν καὶ ἦλθεν εἰς τὴν ἰδίαν πόλιν.

そして彼(イエス)は船に乗り,(海を)渡った.そして来た←自分のポリスに.


1.1 「そして彼(イエス)は船に乗り,(海を)渡った.」

 イエスの一団は,ガリラヤ湖対岸の異境の港から船に乗った.異境とはガダラ人が住む地域で,ギリシアの文化と宗教が席巻する土地であった.その地域でイエス一団は伝道を試みたが,現地の人たちから拒絶され,追い返される結果となった.一行はやって来た航路を引き返した.

1.2 「そして来た←自分のポリスに.」

 「自分のポリス」とはカペルナウムであり,イエス一団の伝道の拠点である.ポリスは政治共同体であり,それなりの都市であった.しかし,エルサレム中心の観点からは田舎町.田舎町には田舎町なりの力がある.このポリスの人たちがイエスの帰還を歓迎したことは想像に難くない.

2 Καὶ ἰδοὺ προσέφερον αὐτῷ παραλυτικὸν ἐπὶ κλίνης βεβλημένον. καὶ ἰδὼν ὁ Ἰησοῦς τὴν πίστιν αὐτῶν εἶπεν τῷ παραλυτικῷ · Θάρσει, τέκνον · ἀφίενταί σου αἱ ἁμαρτίαι.

そして見よ!彼ら(人々)は運んできた←イエスに/←脳卒中の男性を←病床の上に投げられている.そしてイエスは彼らのまごころを見て,その脳卒中の男性に言った.「勇気を出してください,子よ.赦されています←あなたの罪の数々は.」


2.1 「そして見よ!彼ら(人々)は運んできた←イエスに/←脳卒中の男性を←病床の上に投げられている.」

2.1.1 「そして見よ!彼ら(人々)は運んできた←イエスに」

 「見よ」(イドゥー)という間投詞は3節でも使用されている.聴衆の注目を喚起している.「運んできた←イエスに」とあるが,人々はイエスのところに何を運んできたか?モノではなく人である.自動車とてない時代,難儀なことだったであろう.

2.1.2 「脳卒中の男性を←病床の上に投げられている」

「脳卒中の男性」は「パラリュティコス」.男性形である.原義は「弛緩している」である.「筋肉が弛緩している」「からだが麻痺している」と解釈することができるかもしれない.病名は不明であるが,「病床の上に投げられている」という描写から見て,ポリオか脳卒中あたりの可能性があると思われる.仮に脳卒中と推測するなら,現代のわたしたちにとっても厄介な病気である.命を落とす人もいるし,麻痺や失語症などの後遺症をもたらす.

 「投げられている」は,現代の進んだ医療とてない時代,どうしようもない情況を示している.「病床」と訳した「クリネー」は,かなり立派なベッドを示唆する.裕福な家の人であった可能性がある.ベッドに寝たきりであっても,この人は自分をイエスの所に運んでくれる人たちをもっていた.その点では幸いであった.


2.2 「そしてイエスは彼らのまごころを見て,その脳卒中の男性に言った.」

 「まごころ」と訳した「ピスティス」は,「誠実」「信頼」「まごころ」が原義.宗教では「信仰」の意味で使われることもある.ここでは「まごころ」と訳した.

 漢字の「忠」に相当する.「忠」は,本来,まごころ,まことを意味し,まごころをもって相手を思いやること.「見て」とあるが,イエスが彼らのまごころを見逃すはずはない.

2.2.1 「その脳卒中の男性に言った.」

 彼らのまごころに心を動かされたイエスは,病気の男性に声をかける.


2.3 「勇気を出してください,子よ.赦されています←あなたの罪の数々は.」

2.3.1 「勇気を出してください,子よ.」

 「「勇気を出してください」と,イエスから言われると,だれでも勇気が湧くのではないだろうか?「子よ」(テクノン)は,字義通りには「子ども」であるが,ここは慈しみの表現であろう.親にとって,子どもはいくつになっても子どもである.イエスは子どもを慈しむ親の気持ちで,男性に語りかけた.

2.3.2 「赦されています←あなたの罪の数々は.」

 「赦されています」は,当時の宗教通念を打破する大胆な宣言である.どうしてか?「あなたの罪の数々は」(スー・ハイ・ハマルティアイ)を考えてみよう.「あなたの」(スー)が「罪の数々」(ハイ・ハマルティアイ)の前に置かれており,強調である.「他でもなくあなたの」という意味.この男性は病気のゆえに罪人扱いをされてきた.病気は神罰だとする当時の社会通念に対する批判が,見てとれる.宗教指導者が人々に教えた神罰の神学は,たとえば,『創世記』に充満している.アダムとエバが永遠に生きないのは,彼らが神の命令に背いた神罰である(3章1-24節).兄のカインが弟のアベルを殺した結果,神罰としてさすらいの地に追放された(4章1-17節).神による人間創造の意図に反して堕落した人間世界は,ノアとその家族以外は,神罰として洪水によって滅ぼされた(7章1-24節).このように人間の不幸は神罰であるという宗教観念は,旧約聖書において枚挙にいとまがない.これを応報主義というが,イエスの時代においても根強くはびこり,人々を呪縛していた.

 そういう歴史状況を考えるなら,イエスの「赦されています←あなたの罪の数々は」は,当時のユダヤ教神学とユダヤ教支配体制を根底から揺るがす衝撃発言であった.イエスが救いを求める民衆から歓迎された反面,宗教指導者たちからは拒絶された理由はここにある.


3 καὶ ἰδού τινες τῶν γραμματέων εἶπαν ἐν ἑαυτοῖς · Οὗτος βλασφημεῖ.

書記たちのある人たちは言った←自分たちの間で.「こいつは神を冒涜している.」

3.1 「書記たちのある人たちは言った←自分たちの間で.」

3.1.1 「書記たちのある人たち」

 書記たちが現場にいた.「書記」(グランマテウス)は,エルサレム神殿の中にあるサンヘドリンという議会で,大祭司や長老たちと共に重要な位置を占めていた.後者が議員であるとするなら,グランマテウスは官僚である.書記たちは,ユダヤ教の神学に詳しく,それを執行する役割を果たしていた.それにしても,通常はエルサレムに居住する書記たちが,遠く離れたガリラヤ湖畔のカペナウムにいたということは,イエスは危険人物と見られていたことを意味する.ちなみにエルサレムからガリラヤ湖までの距離は,169キロメートルである.彼らはいわば宗教警察のような人たちであり,絶えずイエスの言動を見張っていた.

3.1.2 「自分たちの間で」

  「自分たちの心の中で」とも訳すことができるが,「互いに」とも訳すこともできる.ここでは両方であろう.書記たちは心の中で憤慨すると共に,雁首揃えて協議したということであろう.


3.2 「こいつは神を冒涜している.」

 「こいつ」(フートス)は,そういう敵視の意味合い.「神を冒涜している」と訳した「ブラスペーメオー」は,本来,「聖なるものどもに対して汚い言葉を吐く」ことを意味する.「赦されている←あなたの罪の数々は」という言葉が,聖なる神に対する汚い言葉であると,書記たちは判断した.この判断は,彼らの閉ざされた神学の範疇によるものにすぎない.あらゆる時代のすべての人に普遍的に妥当するものではない.イエスの言葉が,この男性を罪による呪縛の神学から解放するものである以上,イエスの宣言こそ普遍妥当性をもつと言えるのではないだろうか?


 
 
 

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