2024年9月1日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第11回)
~〈浸礼者ヨハネの出現〉の意味~」
聖書箇所 マタイ福音書 3章1〜3節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
※下線は修正の余地があると思われる部分
1 その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、2 言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 3 預言者イザヤによって、/「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.
1 Ἐν δὲ ταῖς ἡμέραις ἐκείναις παραγίνεται Ἰωάννης ὁ βαπτιστὴς κηρύσσων ἐν τῇ ἐρήμῳ τῆς Ἰουδαίας
あれらの日々において/そばに来る/ヨーアンネース・浸礼者が/伝言を伝えるために/その人気のない場所の中で←イウーダイアの.
1.1 「あれらの日々において/そばに来る/ヨーアンネース・浸礼者が」
1.1.1 「あれらの日々において」
何時の日々であるかは不明.子どものイエスがガリラヤ地王のナザレに定住した後,大人に成長した頃と推定してよいかもしれない.マタイは,イエスが公に活動を開始するに至る経緯を述べておきたかった.
1.1.2 「そばに来る」
定動詞「パラギノマイ」は,向こうからこちらにやって来る,が原義.大きな虻が飛んできて,うたた寝をしている人を刺す情景を連想するとよいかもしれない.他人事ではない.
1.1.3 「ヨーアンネース・浸礼者が」
「ヨーアンネース」すなわち日本語訳の「ヨハネ」は,当時のユダヤ人たちの中ではよくある名前.ヘブライ語の「イオーハナーン」(יוֹחָנָן, Yôḥānān ) をギリシア語に音写したもの.「ヤハウェの恵み」のような含蓄の用語である.
「浸礼者」(バプティステース)は,定動詞「バプティゾー」の人称名詞.抽象名詞形は「バプティスマ」.いずれも,水やワインのような液体の中に,身体やカップを全部浸すことを意味する.ヨハネは彼の宗教共同体への入会希望者を,おそらく入会儀式の一環として,川の中に頭のてっぺんまで沈めたと考えられる.したがって,「浸礼者」と訳した.ちなみに,英語では the immerser という訳語が使用されつつある.
1.2 「伝言を伝えるために/その人気のない場所の中で←イウーダイアの」
1.2.1 「伝言を伝えるために」
定動詞「ケーリュッソー」の現在分詞形.この分詞はここでは目的を意味すると解釈した.現在時制なので,伝言を伝え続ける,伝言を繰り返す,と解釈したい.「ケーリュッソー」という動詞は,「ケーリュクス」(伝言)を伝えるが,原義.軍隊用語である.伝令兵は敵の攻撃を命がけでかいくぐり,味方の司令官に伝言を伝えた.浸礼者ヨハネは,伝令兵さながらに,神から授かった伝言を命がけで人々に伝えた.それを彼は自分の使命と心得ていた.
1.2.1 「その人気のない場所の中で←イウーダイアの」
「人気のない場所」と訳した「エレーモス」は,「人里離れた」「人や活動がない」「進んで一人になる」という意味合いをもつ.「エレーモス」は都会の喧騒を離れて,一人きりになり,自分を見直す場所.日本流に言えば,山里あるいは山の中ということ.古来,日本でも,修行者は山の上に住み,そこで深い宗教体験をもった.たとえば,比叡山の最澄,高野山の空海,栂尾(とがのお)山の明恵,越前 吉祥山の道元.
「イウーダイアの」という表現は,ヨハネの眼差しがユダヤに住む人々に向いていたことを示唆する.
2 καὶ λέγων · Μετανοεῖτε, ἤγγικεν γὰρ ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
そして言う.「あなたがたは心を変えなさい.近づいた/なぜなら/王国が←諸天の」
2.1 「あなたがたは心を変えなさい」
前節ではヨハネは「そばに来た」と書いてあったが,だれのそばに来たかは明記されていない.すでに一定数の人々が集合していたことが,暗黙了解されている.その人々に対して,ヨハネはこのように言う.「心を変えなさい」の定動詞は,「メタノエオー」.「メタ(後で)」+「ノエオー(きずく)」の合成動詞.後で気づくよりも前に気づくほうがよい.しかし,いつまでも気づかないよりも,後で気づくほうがよい.
しかし,気づくだけでは足りない.過ちに気づいたならば,今後同じ過ちをしない決心をする必要がある.さらに決心だけにとどまらず,行動を改めるべきである.そういう思いを込めて,「心を変える」と訳した.
ユゴー作『レ・ミゼラブル』のあの主人公ジャン・バルジャン(Jean Valjean)は,心を入れ換えると同時に行動も変えた.ちなみに,ジャンは日本語でヨハネ.Valjeanについては,Voilà le Jean (「ここにヨハネが来る」)という推測もある.
2.2 「なぜなら,近づいた/王国が←諸天の」
2.2.1 「なぜなら」
ギリシア語で「ガル」.理由を示す小辞.小辞とは,助詞などの短い文法上の付属語.原則として文中で前から2番目の位置につく.英語で particle という.
2.2.2 「近づいた」
文頭に置かれ,強調されている.これが,心と行動を変えなければならない理由である.定動詞形「エンギゾー」は,「接近する」が原義.どれだけ接近したのか?ここの「近づいた」は,現在完了時制.ギリシア語の現在完了時称は,行動を強調する効果をもつ.「本当に近づいた」あるいは「すでに近づいている」という意味合い.もう目と鼻の先に来ていることを示す.
2.2.3 「王国が←諸天の」
「王国」は「バシレイア」という.「王」(バシレウス)の統治,あるいは統治する国という意味.ここでは,ヤハウェの統治,あるいは統治する王国.ヨハネは,ヤハウェの王国がすでに目と鼻の先に迫っている,と確信していた.それをどうしてもユダヤ地方の人々に,特にエルサレムの神殿貴族たちに伝えたかった.それをマタイは言いたい.
「諸天」と訳したのは,「天」(ウーラノス)の複数形であるから.「ヤハウェ」の婉曲表現.天が複数形なのは,天は複数の天蓋(ドーム)の重層構造であると考えられていたから.
ヤハウェの王国の地上への到来は,ヤハウェに逆らう生き方をしていた人々に対する,審判と断罪を意味した.
3 οὗτος γάρ ἐστιν ὁ ῥηθεὶς διὰ Ἠσαΐου τοῦ προφήτου λέγοντος · Φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ · Ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου, εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους αὐτοῦ.
この人である/なぜなら/言われた人は/を通して←エーサイアス・預言者.(エーサイアス)曰く.「声←叫んでいる人の/その人気のない場所の中で.『あなたがたは準備しなさい←主の公道を,あなたがたはまっすぐにしなさい←彼の分岐道の数々を』」
3.1 「この人である/なぜなら/言われた人は/を通して←エーサイアス・預言者」
3.1.1 「なぜなら」(ガル)
マタイの自説補強作戦.自説に自信のない人は,権威を盾として提示する.
3.1.2 「この人である」
文頭に置かれ,強調.ヨハネはただならない人であると,マタイは言いたい.
3.1.3 「言われた人は」
マタイは,権威が語る言葉を頼みとしている.
3.1.4 「を通して」
「ディア」という前置詞.仲介を意味する.宗教的権威の仲介で神から託された言葉ということ.マタイは,神から直接に聞くことに関心がない.
3.1.5 「エーサイアス・預言者」
LXXイザヤ書 40章3節からの定型引用.ユダヤ教経典からの定型引用は,マタイの思考方式の特徴である.
φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ Ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου, εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους τοῦ θεοῦ ἡμῶν·
「声←叫んでいる人の/その人気のない場所の中で.『あなたがたは準備しなさい←主の公道を,あなたがたはまっすぐにしなさい←私たちの神の分岐道の数々を』」
マタイはイザヤ書とほぼ一致してる.ただし,イザヤ書の「私たちの神」は,マタイでは「彼(=主)」となっている.
3.2 「声←叫んでいる人の/その人気のない場所の中で」
「声」(ボーネー)とだけ言われている.動詞はない.マタイの考えによると,浸礼者ヨハネは,戦場の喧騒の中で伝言を叫んでいる伝令兵の声にすぎない.もし伝令兵が戦死したならば,代わりの人がいる.イエスには代わりはいない.ヨハネよりイエスが上であるという見方を,マタイはちらつかせている.イエスは,人気のある場所で,公然と出現するのでなければならないと,マタイは言いたいようである.
3.3 「あなたがたは準備しなさい←主の道を,あなたがたはまっすぐにしなさい←彼の分岐道を』」
3.3.1 「あなたがたは準備しなさい←主の道を」
定動詞「準備する」(ヘトイマゾー)は,準備万端にすること.道を準備万端にするということは,国王の連想で言えば,国王と軍隊と兵器が通る道を整地すること..ここでの「主」(キュリオス)は,おそらく王としてのイエスを指す.マタイ福音書では,イエスは最初から王になるべき子どもとして生まれた.
ここでの「公道」(ホドス)は,人生の道,歩むべき道,正しい生き方を意味すると思われる.過ちででこぼこになっている心の道を,イエスにお通りいただくのにふさわしい道に整理整頓しなければならない,とマタイは言いたい.
3.3.2 「あなたがたはまっすぐにしなさい←彼の分岐道の数々を」
「まっすぐ」と訳した「エウテュス」はそういう意味.まっすぐということは,最短距離で目的地に到達することができる.「分岐道の数々」と訳したのは複数形だから.単数形は「トリボス」.人が足しげく踏み進む道のこと.公道(ホドス)が整備されるだけではなく,他の共同体に通じる分岐した道の数々も,まっすぐにされなければならない.
「彼の」(アウトゥー)の「彼」は,王としてのイエスを指すものと思われる.人は,人生の基本的な姿勢においても,人生のあらゆる側面においても,王としてのイエスが通っていただくのに最適の道を備え,イエスと共にあゆみましょう,とマタイは言いたい.その気持ちを,浸礼者ヨハネとユダヤ教経典を後ろ盾として,マタイは言い表した.
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