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7/27 マタイ福音書のイエス (第46回)~〈「神」か「富」かの二分思考〉を検討する

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 7月27日
  • 読了時間: 7分

2025年7月27日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第46回)

       ~〈「神」か「富」かの二分思考〉を検討する〜

聖書箇所    マタイ福音書 6章24〜25節   話者 三上  章

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      [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

24 「誰も,二人の主人に仕えることはできない.一方を憎んで他方を愛するか,一方に親しんで他方を疎んじるか,どちらかである.あなたがたは,神ととに仕えることはできない.」 25 「だから,言っておく.自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと,また体のことで何を着ようかと思い煩うな.命は食べ物よりも大切であり,体は衣服よりも大切ではないか.

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 以下は原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.


24 Οὐδεὶς δύναται δυσὶ κυρίοις δουλεύειν · ἢ γὰρ τὸν ἕνα μισήσει καὶ τὸν ἕτερον ἀγαπήσει, ἢ ἑνὸς ἀνθέξεται καὶ τοῦ ἑτέρου καταφρονήσει. οὐ δύνασθε θεῷ δουλεύειν καὶ μαμωνᾷ.

誰もできない/二人の主人に/隷従することを.なぜなら,一方の主人を彼は憎むであろう.そして他方の主人を愛するであろう.または,一人だけに彼は忠義を尽くすであろう.そして他方を下に見るであろう.あなた方はできない/神に隷従することを,そしてマモーナースに(隷従することを).


24.1 「誰もできない/二人の主人に/隷従することを」

24.1.1 マタイの見解

 福音書記者マタイは,イエスに付託して,自分の見解をマタイ共同体のクリスチャンたちに語る.

24.2.2 「二人の主人に」

 「主人」は「キューリオス」.古代ローマ社会では,貴族にして大土地所有者.パトローヌスと呼ばれた.背後に,パトローキニウム関係があった.吉村忠典氏によると,以下の通り.「古代ローマ社会における一種の親分・子分の関係.親分をパトローヌスpatrōnus(パトロン),子分をクリエーンスcliēnsといい,この関係をパトロンの側からはパトローキニウム,子分の側からはクリエンテラclientelaとよぶ.

 古く十二表法にも現れる社会関係で,共和政時代中期以後も,社会的な強者と弱者との相互利用の関係は,上層民相互の関係から上層・下層の関係に至るまで,公私の生活の顕著な側面をなした.相互を結ぶ信義fidēsを破ることは背徳とされ,大きなパトローキニウムを擁することは威信を表すと考えられた.

 ローマ有力者のパトローキニウムは,ローマ勢力の拡大とともに地中海世界を覆い,ローマ皇帝は全帝国民の最大のパトロンであった.農民が土地を有力者に寄進して小作人となり,その保護によって抑圧者から身を守るなど,この関係は古代末期にも存続したが,これを西洋中世封建制の一つの源とする説もある.」本日の聖書箇所の背後には,パトローキニウムがあったことを認識しておく必要がある.

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24.2.3 「隷従することを」

 「ドゥーレウオー」は,「奴隷として仕える」のが本義.特定の親分の子分になること.侠客の世界で言えば,静岡の清水次郎長の子分になる.あるいは,山梨の黒駒の勝蔵の子分になること.侠客とは,正義感があり、困っている人を助ける人物のこと.斉藤和英辞典では,「騎士道的客人」(chivalrous guest)と訳している.「七人の侍」と彼らに従った農民たちを連想すればよいかもしれない.

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24.2 「なぜなら,一方の主人を彼は憎むであろう.そして他方の主人を愛するであろう」

 「憎む」(ミーセオー)と「愛する」(アガパオー)は,「信義」(フィデース).「大辞泉」によると,「信義」とは「真心をもって約束を守り,相手に対するつとめを果たすこと」.それが「愛する」(アガパオー)である.その反対が,「憎む」(ミーセオー)である.清水次郎長(清水次郎長)の子分は,次郎長の子分でありながら,次郎長の競争相手黒駒勝蔵の子分になることはできない.


24.3 「または,一人だけに彼は忠義を尽くすであろう.そして他方を見下すであろう」

24.3.1 「一人だけに彼は忠義を尽くすであろう」

1) 「一人だけ」

 自分の意志で選択した唯一の人,という意味合い.

2) 「忠義を尽くす」

 「アンテコマイ」は,「保持する」「掴んで離さない」が原義.パトローキニウムにおいては,クリエーンスがパトローヌスに忠義を尽くす.

24.3.2 「他方を下に見るであろう」

 会社役職序列で言えば,課長は部長より下であり,部長は社長より下である.Xというクリエンテースにとっては,自分のパトローヌスAが社長である.他の所に他のクリエーンスたちのパトローヌスたちがいるとしても,自分のパトローヌスよりも優先順位において下に見なければならない.前の句と同じことを言っている.


24.4 「あなた方はできない/神に隷従することを,そしてマモーナースに(隷従することを)」

24.4.1 「あなた方はできない」

 福音書記者マタイは不可能を強調する.可能性への意欲,意思,情熱が希薄である.

24.4.2 「神に隷従することを,そしてマモーナースに(隷従することを)」

1) 両面思考の排除

 「神に隷従すること」と「マモーナースに隷従すること」の両方を考慮することを,仮に両面印刷的思考と名づけるならば,マタイは両面思考を排除する.二人の主人に隷従することはできないという譬えに従って,彼は片面印刷的思考に固執する.

2) 「神に隷従すること」

 マタイの頭にはこれしかない.この文言によって,彼は何を意味しているのか?おそらく,マタイの想念する神に隷従することであろう.その神は家の教会の維持と発展を意思している.その神の意思に素直に従うこと,それがマタイの意味であろう.具体的には,マタイ共同体のクリスチャンは,自分が保有する富を,気前よく教会に捧げましょうということになる.

3) 「マモーナースに(隷従すること」

 「マモーナース」は,「富」を意味するセム語「マーモン」あるいは「マーモナー」をギリシア語に音写したもの.ギリシア語としては,「富」を意味する単語はいろいろある(プルートス,ウーシア,ヒュパルコンタなど)にもかかわらず,マタイはなぜマモーナースという単語を使うのか?この問題に関しては,マタイ共同体はマモーナースを偶像の名前として用いたという説(ヘンゲル)があるが,私もありうる話であると思う.

 イエスの時代のユダヤ教徒たちは,一般に,経済的繁栄をよいものと見なしたが,貪欲な蓄財に対しては批判的であった.他方,宗教的目的のために,財産を放棄した浸礼者ヨハネやナザレのイエスのような人たちもおり,彼らはマタイ共同体においては尊敬の的であったであろうことは,想像に難くない.私としては, ソクラテス, エピクロス,樽のディオゲネス, エピクテトスら,清貧に甘んじた哲学者たちを連想せずにはおられない.


25 Διὰ τοῦτο λέγω ὑμῖν · μὴ μεριμνᾶτε τῇ ψυχῇ ὑμῶν τί φάγητε, μηδὲ τῷ σώματι ὑμῶν τί ἐνδύσησθε · οὐχὶ ἡ ψυχὴ πλεῖόν ἐστι τῆς τροφῆς καὶ τὸ σῶμα τοῦ ἐνδύματος;

そのことの故に,私はあなた方に言います.あなた方は心配するのを止めてください/あなたがたの生命のために/あなた方は何を食べるかを.またあなた方の身体のために/あなた方は何を着るかを(・・・).生命は食物よりも重要ではありませんか?そして身体は衣服より(・・・?)


25.1 「そのことの故に,私はあなた方に言います」

 マタイは,イエスに付託して,自分の生活観を共同体のクリスチャンたちに語っている.

25.2 「あなた方は心配するのを止めてください/あなたがたの生命のために/あなた方は何を食べるかを」

 マタイは食べ物の心配をするなと言う.現代日本の物価高・給料安に鑑みて,無理である.

25.3 「またあなた方の身体のために/あなた方は何を着るかを(・・・)」

 マタイは衣服の心配をするなとも言う.これも無理である.

25.4 「生命は食物よりも重要ではありませんか?そして身体は衣服より(・・・?)」

 詭弁にしか聞こえない.ある政治指導者が次のように言ったと仮定してみよう.「国民の皆さん,食べ物の心配を止めてください.霞を食べて生活しましょう.衣服の心配を止めてください.古代人のように裸で生活しましょう.お金は天下の回り物です.」果たしてこういう政策を国民は支持するだろうか?

 25.5 究極の状況

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 ただし,究極の状況においては,話は別である.かつて上智大学で教えたW.エヴァレット神父は,『いかに愛するか』(講談社現代新書)93頁 の中でこういう話を紹介している.「第二次世界大戦のはじめ,お米屋さんの主人に召集令状が来て,主人は出征した.知り合いがそれを聞いて,しばらくしてからその家へ留守見舞いに行き,「お父さんから便りがありますか」と尋ねた.すると家の人が一枚の官製はがきを出した.戦時のことで,そこにはフィリピンともビルマとも書いてない.ただ東部何部隊と書いてあるだけで,どこに行っているのかわからない.お父さんが家族のことを心配しているのはきまっている.家ではいったいお父さんはどこの戦線にいるのだろうかと心配しているにきまっている.それなのに,一面書けるようなはがきに,驚いたことにただ二行しか書いてなかった.「野のゆりを見よ,空の鳥を見よ」.そこには神への信頼によって信じあっている夫婦の姿がある.」

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