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5/11 マタイ福音書のイエス (第38回)~誰をどこまで愛するか〜

  • 執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル
    平岡ジョイフルチャペル
  • 5月11日
  • 読了時間: 7分

2025年5月11日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第38回)

       ~誰をどこまで愛するか〜」

聖書箇所    マタイ福音書 5章46〜48節   話者 三上  章


      [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」



  •    以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.


46 ἐὰν γὰρ ἀγαπήσητε τοὺς ἀγαπῶντας ὑμᾶς, τίνα μισθὸν ἔχετε; οὐχὶ καὶ οἱ τελῶναι τὸ αὐτὸ ⸃ ποιοῦσιν;

なぜなら,あなたがたが愛するならば←愛している人たちを←あなたがたを,どんな報酬をあなたがたは持っていますか?徴税人たちでさえ,同じことをしているではありませんか?


46.1 「なぜなら,あなたがたが愛するならば←愛している人たちを←あなたがたを,どんな報酬をあなたがたは持っていますか?」

46.1.1 マタイ教会の状況

 今回の箇所も,マタイ教会の観点から作られた物語であると思われる.在世中のイエスに関する歴史的記述と決めつけないほうがよい.この箇所を聴かせられたマタイ教会のクリスチャンたちは,自分たちに向けて語られた言葉として認識したであろう.

46.1.2 「なぜなら」

 44節の「よそ者たちを愛し続けなさい」という倫理命題の理由説明である.十分な説明になっているだろうか?

46.1.3 「あなたがたが愛する」

 愛する」と訳した動詞は「アガパオー」.同族の名詞形は「アガペー」.原義は,「好む」,すなわち「AよりBを好む」,「優先する」「優待する」.愛情の意味合いは薄い.

46.1.4 「愛している人たちを←あなたがたを」

 身内の人たちを指す.ユダヤ教徒たちの観点からは,シナゴーグ共同体に所属する人たち.マタイ教会クリスチャンたちの観点からは,マタイ教会に所属する人たちということになる.

46.1.5 「どんな報酬をあなたがたは持っていますか?」

 「報酬」(ミストス)の原義は,労働の対価としての利益.身内を優先・優待するという行為の対価として,いかなる利益を得ていますか,と問うている.自己満足という利益にならない利益を得ているとでも言おうか.


46.2 「徴税人たちでさえ,同じことをしているではありませんか?」

46.2.1 「徴税人たちでさえ」

 「徴税人」と訳した「テーローネース」は,「集める人」が原義. ここでは,ユダヤ人でありながらローマ帝国に雇われた役人.ローマ帝国に納める税金をユダヤ人たちから徴税した.税金の種類は,所得税,住民税,通行税など.徴税の務めは,その地域の総督に与えられていたが,実際には,徴税人を現地で募集し,入札でいちばん高い値段をつけた人に取税人の権利を与えた.取税人としての給与は,ローマ帝国から支払われるわけではなく,その分も含めて,ユダヤ人たちから徴税するという仕組み.つまり,ユダヤ人たちからどのくらい税金を取り立てるかは,徴税人自身に任されていた.ローマに納める金額は決まっているため,たくさん取り立てれば,その分,徴税人たちの収入が増える.当時のユダヤ人たちにとって,神の民である自分たちが,異邦人(外国人)であるローマ人に支配されていること自体,受け入れがたいこと.ましてや,ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先たる徴税人たちは,裏切り者であった.


46.2.2 「でさえ」(カイ)という副詞にご注目.上からの目線,見下しの態度を表す.福音書記者マタイは,よそ者を優先・優待しなさいという,ご立派な倫理観を喧伝しておきながら,その舌の先が乾かないうちに「徴税人たちでさえ」という差別的用語を吐き出す.

46.2.3 「同じことをしているではありませんか?」

 「同じこと」(ト・アウト)とは,身内を優先・優待するということ.マタイも同じことをしている.


47 καὶ ἐὰν ἀσπάσησθε τοὺς ἀδελφοὺς ὑμῶν μόνον, τί περισσὸν ποιεῖτε; οὐχὶ καὶ οἱ ἐθνικοὶ τὸ αὐτὸ ⸃ ποιοῦσιν;

そしてあなたがたが歓迎するならば←あなたがたの兄弟たちだけを,過分の何をあなたがたはしているのですか?異邦人たちでさえ,同じことをしているではありませんか?


47.1 「そしてあなたがたが愛するならば←あなたがたの兄弟たちだけを,過分の何をあなたがたはしているのですか?」

47.1.1 「そしてあなたがたが歓迎するならば」

 「歓迎する」と訳した「アスパゾマイ」は,「歓迎する」が原義.挨拶の言葉も含まれるが,それだけではなく歓待する・もてなすという実行である.

47.1.2 あなたがたの兄弟たちだけを」

 「兄弟たち」(アデルポスの複数形)は,ユダヤ教の観点からは,シナゴーグを拠点とするユダヤ教共同体に属するユダヤ教徒たちを指す.内輪の人たちである.マタイ教会の観点からは,マタイ教会に所属するクリスチャンたち.内輪の人たちである.彼らは「兄弟たち」であり,持ちつ持たれつの関係を保っていた.福音書記者マタイは,それは当たり前のことだと言い放っている.しかし,現実には,内輪や身内において,その当たり前のことが難しいことを,私たちは知っている.

 とにかく「兄弟たちだけ」の「だけ」(モノン)という物言いに,マタイの不満が表れている.

47.1.3 パトロヌスとクリエンテース.貧者は門外・


47.1.4 「過分の何をあなたがたはしているのですか?」

 「過分」と訳した「ペリッソン」は,「普通の数量を超えたもの」「もっと多くのもの」が原義.何のことを言っているのか?おそらく寄付のことを言っている.シナゴーグまたはキリスト教会に,できるだけたくさんの寄付をすべきであるという観念が,マタイの頭の中にある.皆さん,仲よくうどんを食べましょうくらいで,私たちは愛していますなどと吹聴してはいけません,寄付を弾みましょうということ.


47.2 「異邦人たちでさえ,同じことをしているではありませんか?」

47.2.1 「異邦人たちでさえ」

 「よそ者を愛しなさい」という立派な教えを垂れるマタイではあるが,平気で他者を「異邦人たち」(エトニコイ.複数形)呼ばわりをする.差別を否定する人が差別的用語を使っている.「異邦人」と訳した「エトニコス」は,「同じ部族の人」が原義.他の部族からすると「異なる部族の人」ということになる.新約聖書に5回出てくる.そのうちマタイ福音書が3回.モーセの律法を遵守するユダヤ教徒に対してそうではない人たちを意味する.「あの人はユダヤ教徒ではない」と蔑む,ユダヤ教徒優位目線の用語である.必ずしも異民族全般を意味するものではない.異なる民族であっても,異なる言語であっても,福音書記者マタイの観点からは,モーセの律法を遵守する人はユダヤ教徒であり,「兄弟」である.マタイの「敵を愛せよ」の言説は,アンビバレント(愛憎併存)である.


48 Ἔσεσθε οὖν ὑμεῖς τέλειοι ὡς ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ οὐράνιος τέλειός ἐστιν.

ですから,ありなさい←(他でもなく)あなたがたは⇦完全で/のように←父が←あなたがたの←天にいる⇦完全である.


48.1 「ですから,ありなさい←(他でもなく)あなたがたは⇦完全で」

 「完全」と訳した「テレイオス」は,元来,五体完全な犠牲獣に言及する形容詞.「染み・傷のない」が,原義.マタイの意味は,モーセ律法の遵守に局限した完全.ユダヤ教の範疇の外にある広い世界に対しては関心がない.マタイは,並のユダヤ教徒ではなく特上のユダヤ教徒であるようにと,檄を飛ばす.しかし,「言うは易く行うは難し」である.出典は,古代中国の会議録「塩鉄論」.塩や鉄などの専売制をめぐる議論をまとめた書物である.


48.2 「のように←父が←あなたがたの←天にいる⇦完全である」

48.2.1 「のように」(ホース)

 「ホース」は二通りに解釈することができる.一つは,「まさに〜のように」「〜と同じように」.人が神と同じようになることは,無理である.もう一つは,「〜に似せて」.

48.2.2 徳島県鳴門市の大塚国際美術館のシスティーナ・ホール

 システィーナ礼拝堂に似せて造られた.本物以上に本物らしい,と言う人もいる.とはいえ,やはり模倣である.

48.2.3 実物のシスティーナ礼拝堂

48.2.4 「父が←あなたがたの←天にいる⇦完全である」

 天にいる父が「完全である」とはどういうことか?マタイはそれが分かっているのか?分かった上でそれを言っているのか?不完全な人間がどうして完全な父について語ることができるのか?追求はここまでにしておこう.

 今日の結論として,「習わざるを伝うるか」(曾子曰,・・・伝不習乎)を自分自身への戒めとしておきたい.『論語』「学而」からの引用である.漢学者の諸橋徹次先生は,これを以下のように解説している.「人は知ったかぶりをしがちなものだ.まだ,はっきりと習得も体験もしないことを,人に伝えたり,教えたりしてはいないだろうか〈曾子の三省のことば〉」


 
 
 

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