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執筆者の写真平岡ジョイフルチャペル

2/25 マルコ福音書のイエス (第149回)~〈刑場への連行〉の幕〜

更新日:2月26日

2024年2月25日 主日礼拝

聖書講話   「マルコ福音書のイエス (第149回)~〈刑場への連行〉の幕〜」  

聖書箇所    マルコ福音書 15章21〜25節   話者 三上 章



    聖書協会共同訳

  [下線は改善の余地があると思われる部分]

21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。 22 そして、イエスをゴルゴタという所、訳せば「されこうべの場所」に連れて行った。23: 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/誰が何を取るか、くじを引いて/その衣を分け合った。25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

 

 以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解である.


21 Καὶ ἀγγαρεύουσιν παράγοντά τινα Σίμωνα Κυρηναῖον ἐρχόμενον ἀπ’ ἀγροῦ, τὸν πατέρα Ἀλεξάνδρου καὶ Ῥούφου, ἵνα ἄρῃ τὸν σταυρὸν αὐτοῦ.

そして彼ら(その兵士たち)は臨時徴用する←通行しているある人を/シモーン・キュレーネー人を←やって来た←地方から/父親を←アレクサンドロスとルーポスの/彼(シモーン)が背負うために←彼(イエス)の刑柱を.


21.1 「彼ら(その兵士たち)は臨時徴用する←通行しているある人を」

21.1.1 「臨時徴用する」と訳した「アンガレウオー」はペルシア語からの借用語.原義は「アンガロスとして臨時徴用する」と推測される.「アンガロス」は臨時に徴用された帝国文書運搬官.もじり,滑稽化の工夫であろう.

21.1.2  「通行しているある人を」

 臨時徴用されたのは兵士ではなく,ある通行人.偶然の通行人という意味か?それとも他にも通行人がいたが,特別に選ばれた通行人という意味か?続く文言から見て,後者であると思われる.

21.2 「シモーン・キュレーネー人を←やって来た←地方から/父親を←アレクサンドロスとルーポスの/彼(シモーン)が彼(イエス)の刑柱を背負うために」

21.2.1 「シモーン・キュレーネー人」

 固有名詞ということは,マルコ共同体のクリスチャンたちにとってなじみの名前であったということだろうか.シモーンはギリシア語名で,ヘブライ語名では「シメオン」または「シュメオン」.西暦紀元1世紀のユダヤ人にはよくある名前であった.



「キュレーネー人」は「キュレーネー出身の人」という意味.「キュレーネー」はアフリカ北部地中海沿岸に位置する大きなギリシア植民都市.紀元前96年以降ローマの統治下に置かれる.これによりシモーンはディアスポラ出身の男性であることがわかる.文書と碑文の証拠によると,キュレーネーにはかなりの人数から成るユダヤ人共同体が存在した.シモーンは過越の祭りのために巡礼としてエルサレムに訪れていたのかもしれない.あるいは,エルサレムに定住していたのかもしれない.続く文言から見て,後者の可能性が高い.

21.2.2 「やって来た←地方から」

 「やってきた」というのは,エルサレムの町の方にやってきた.「地方」と訳した「アグロス」の原義は「畑」.畑仕事から帰ってきたと解釈することもできる.あるいは,アグロスは「地方」を意味することもできる.町の対義語としての地方である.その場合,シモーンは,アフリカ地方のポリス,キュレーネーからポリス,エルサレムに過越の祭りのために巡礼としてやって来たという意味になる.宗教都市エルサレムの優位性をそれとなくほのめかしている.



21.2.3 「父親を←アレクサンドロスとルーポスの」

 シモーンと言ってもどのシモーンなのか?アレクサンドロスとルーポスの父親のシモーンと限定されている.それを聞けば,マルコも彼の最初の聴衆・読者も,ああ,あのシモーンねと合点が行ったであろう.

 アレクサンドロスはギリシャ語の名前であるが,ユダヤ人も好んで付けた名前である.父親がギリシア植民地のポリス出身となれば,なおさらである.ルーポスはラテン語ルーフスのギリシャ語名である.これもギリシア人に好まれた名前.

 彼らが実在の人物であるかどうかは,伝承のこの部分が史実に基づいているのか,それとも伝説であるのかによる.もし伝説であるなら,架空の人物である可能性も出てくる.他方,タイセンのような保守的な聖書学者は,史実と信じている.

21.2.4 「彼(シモーン)が背負うために←彼(イエス)の刑柱を」

 「背負う」と訳した「アイロー」は 古典ギリシア語「アイレオー」の発音が簡略化した.重いものを「上げる」「持ち上げる」「持ち上げて背負う」という意味.力を必要とする.「刑柱」と訳した「スタウロス」は,磔刑に使用される柱.したがって,そうとう重たい.縦の柱なのか横の柱なのかは不明.古代のラテン語文筆家たちによると,刑場には予め縦の柱が設置されていたと言う.もしそうであるなら,横の柱ということになる.それでも,そうとうに重たい.

 なぜシモーンが,イエスの代わりに刑柱を背負ったかは不明.一説によると,イエスは不正に対する抗議を示すためけ,刑柱を背負うことを拒否した.あるいは,イエスは厳しいむち打ちにより衰弱しており,刑柱を背負う力がなかったという説もある.後者の推測のほうが,一般に好まれている.


22 καὶ φέρουσιν αὐτὸν ἐπὶ τὸν Γολγοθᾶν τόπον, ὅ ἐστιν μεθερμηνευόμενον Κρανίου Τόπος.

そして彼ら(その兵士たち)は運んでいく←彼(イエス)を/の上に←ゴルゴタースの場所/翻訳するとクラニオンの場所.


22.1 「彼ら(その兵士たち)は運んでいく←彼(イエス)を」

 「運んでいく」と訳した「ペロー」は,動かないものを運ぶという意味.抗議のためてこでも動こうとしないイエスは,その兵士たちによって無理やり運ばれていくという意味か.それとも,衰弱のため動けなくなったイエスは,その兵士たちによって刑場に運ばれていったということか.あるいは,イエスはローマ帝国の権力の下,刑場に連行されたというほどの意味か.

22.2 「の上に←ゴルゴタースの場所」

22.2.1 「の上に」

 ということは,高い位置を示唆する.丘だろうか.

22.2.2 「ゴルゴタースの場所」

 ギリシア語「ゴルゴタース」(Γολγοθᾶς )はおそらくアラム語の「グルグルター」(גולגולתא)が変化した「グルゴーター」(גולגותא)に由来する.意味不明.「頭」,「頭蓋骨」の意味と推測されている.これに相当するラテン語は「カルウァーリア」(calvāria)

であるが,かならずしも干からびた頭蓋骨を意味するとはかぎらない.「生首」を意味することもできる.

22.3 「翻訳するとクラニオンの場所」

22.3.1 この文言がマルコの付加によるものか,それとも伝承によるものかを決定することは難しい.いずれにしても,「ゴルゴタース」と言われても分からないギリシア語使用者のための配慮.「頭のてっぺん」,「頭」,「頭蓋骨」という意味.以下は再現図であるが,あくまでも推測である.



22.3.2 「ゴルゴタース」の所在地

 エルサレムの城壁の内部か外部かについて諸説がある外部説が,優勢を占めている.オリーブ山の頂上に位置する小さな丘という説もある.他方,「ゴルゴタース」は「頭」ではなく「採石場」を示すという説もある.採石場は人々が往来する途上にある.ローマ帝国の習慣として,多くの通行人が見ることができる場所に,さらし者として犯罪者を磔刑に処した.近隣に所在する良き市民の聖なる墓所と強烈な対極をなす.


23 καὶ ἐδίδουν αὐτῷ ἐσμυρνισμένον οἶνον, ὃς δὲ οὐκ ἔλαβεν.

そして彼ら(?)は与えた←彼(イエス)に/スミュルナ風味のぶどう酒を.しかし彼(イエス)は受け取らなかった.

23.1 「彼ら(?)は与えた←彼(イエス)に/スミュルナ風味のぶどう酒を」

23.1.1 「彼ら(?)」

 彼らとはだれか?「その兵士たち」とするなら,彼らにもイエスに対する温情があったことになる.しかしその兵士たちとはかぎらない.バビロニア・タルムードによると,ユダヤ人が磔刑に処せられる場合,女性ユダヤ人たちによって飲み物がその受刑者に提供されたという説を持ち出す神学者も少なくない.

23.1.2 「スミュルナ風味のぶどう酒」

 ギリシア語は「エスミュルニスメノン・オイノス」.一応このように訳してみた.「オイノス」はぶどう酒.問題は「エスミュルニスメノン」.定動詞形は「スミュルニゾー」で,新約聖書以外にはまれ.七十人訳ギリシア語聖書には出てこない.おそらく「スミュルナ(没薬)のようである」という意味.当時,最高級のぶどう酒はスミュルナの香りがしたという説もある.その場合,だれによって提供されたものであれ,イエスへの敬意の表明ということになる.他方,その兵士たちは悪意から高級ぶどう酒をイエスに提供したという説もある.その場合は,「ユダヤ人たちの王」への嘲笑・侮辱ということになる.

 さらに,痛みの緩和のためのぶどう酒という説もある.LXX『箴言』31章6〜7節がしばしば引用される.

 δίδοτε μέθην τοῖς ἐν λύπαις καὶ οἶνον πίνειν τοῖς ἐν ὀδύναις

    ἵνα ἐπιλάθωνται τῆς πενίας καὶ τῶν πόνων μὴ μνησθῶσιν ἔτι

あなたがたは強い酒を与えなさい/もろもろの苦しみの中にある人たちに.そしてぶどう酒を与えなさい/飲むために/もろもろの苦痛の中にいる人たちに.それは彼らが貧困を忘れるためです.そしてもろもろの労苦をもはや記憶しないためです.

 こじつけ解釈の感を免れない.

 スミュルナあるいはぶどう酒には麻酔の効果があったという説や,衰弱した受刑者を処刑場に向かわせる刺激を与える効果があったという説もある.しかし,どの説も推測の域を出ない.

23.2 「しかし彼は受け取らなかった」

 なぜか?イエスにとって苦しみは,父の意思であったからという説がある.神学者が考えそうな宗教的こじつけである.そもそもこの文言はマルコの編集句ではなく,彼が用いた伝承に由来すると思われる.そこには高貴な死に方を美化するストア派的考えが見て取ることができる.マルコとしては,死をものともしない殉教者の姿勢を伝承から読み取ったかもしれない.


24 καὶ σταυροῦσιν αὐτὸν καὶ διαμερίζονται τὰ ἱμάτια αὐτοῦ, βάλλοντες κλῆρον ἐπ’ αὐτὰ τίς τί ἄρῃ.

そして彼ら(兵士たち)は磔刑に処する←彼(イエス)を.そして分配する←彼の外套(pl.)を/投げることによって←くじを←めぐって←それら(衣)を/誰が何を取り去るか(について).

24.1 伝承史の観点

 ブルトマンが言うように,最古の伝承に属する可能性がある.とはいえ,史実をありのままに伝えていると早合点してはならない.そもそも伝承の最初の段階から,創作であった可能性もある.

24.2 「彼ら(兵士たち)は磔刑に処する←彼(イエス)を」

 「磔刑に処する」は現在時称.歴史的現在の用法として見るならば,イエスを磔刑に処した状況を目の前に彷彿とさせる効果がある.あるいは過去の時称とすべきところを,伝承のギリシア語が稚拙だったから,現在時称を用いたのかもしれない.いずれにせよ,磔刑に処したことだけが述べられていて,拷問と処刑の方法・手順については何も語られていない.イエスの苦しみを取りたてて強調していない.

24.3 「そして分配する←彼の衣類(pl.)を/投げることによって←くじ石を←めぐって←それら(衣)を/誰が何を取り去るか(について)」

24.3.1 LXX 詩編21篇19節を想起させる文言である.

 διεμερίσαντο τὰ ἱμάτιά μου ἑαυτοῖς

   καὶ ἐπὶ τὸν ἱματισμόν μου ἔβαλον κλῆρον.

   彼らは私の外套(pl.)を自分たちのために分配した.

 そして私の衣服(sg.)をめぐって,彼らはくじ石を投げた.

24.3.2 史実の可能性

 詩編への言及とは言っても,史実の可能性は排除すべきできない.

24.3.3 「そして分配する←彼の外套(pl.)を」

 「分配する」も現在時称.先の「磔刑に処する」と共に,おそらく歴史的現在.過去の出来事を聴衆・読者の目の前に彷彿とさせる.「外套(pl.)」が複数形であるのはなぜか?

             皇帝のヒーマティオン


 外套」と訳した「ヒーマティオン」は,ガウンのようにかさばるものである.まさかイエスが複数の外套を重ね着していたわけではあるまい.エルサレムに向かう旅路のために,複数の外套を持参したとは考えにくい.

 あるいは,伝承は複数のヒーマティオンによって王の正装を想像していたのかもしれない.王ならば高価な外套を何枚も所有している.しかるに,イエスは,最初のクリスチャンたちにとって,メシアとしての「ユダヤ人たちの王」である.したがって,複数のヒーマティオンという推測になる.

24.3.4 「投げることによって←くじ石を←めぐって←それら(衣)を/誰が何を取り去るか(について)」

 ここでは「くじ」(クレーロス)は,引くものではなく投げるものである.それゆえ「くじ石」と訳した.死刑に断罪された人物の所有物が,死刑執行人たちによって分配されることは,許可されていた.聖書の予言の成就という神学的解釈もあるが,妥当ではない.それどころか,そういう危険な妄想・妄信ですらある.


25 Ἦν δὲ ὥρα τρίτη καὶ ἐσταύρωσαν αὐτόν.

第3時であった.そして彼ら(兵士たち)は磔刑に処した←彼(イエス)を.


25.1 伝承史の観点

 ブルトマンによると,福音書記者マルコによる付加.私もそう思う.マルコは,伝承における物語に不足を感じたので,脚色を加えた.

25.2 「第3時であった」

 ギリシア・ローマの時刻に基づいている.「一日」(ヘーメラ)とは「昼間」のこと.「昼間」は12等分された.春分の頃のエルサレムでは,「第1時」は午前6時に始まった.したがって,「第3時」は午前9時ということになる.マルコの脚色部分の中の時刻であるから,史実とはかぎらないが,妥当な時間ではある.

25.3 「そして彼ら(兵士たち)は磔刑に処した←彼(イエス)を」

25.3.1 「そして」

 ギリシア語の「カイ」は,通常そういう意味である.しかし,この箇所を伝承に属すると見なしたい神学者たちは,「カイ」を「〜の時」の意味にしたがる.「兵士たちがイエスを磔刑に処した時は,第3時であった」という文意にもっていきたいからである.かなりこじつけである.「そして」と読むのが妥当である.

25.3.2 「彼ら(兵士たち)は磔刑に処した←彼(イエス)を」

 すでに24節で,兵士たちはイエスを磔刑に処したと言われている.そこは伝承に属する部分である.それなのに25節で,マルコは同じことを繰り返している.マルコの編集から生じたほころびである.しかしマルコには,そういうことは気にならない.

 

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