2023年11月12日 主日礼拝
聖書講話 「マルコ福音書のイエス (第139回)~真実の覚醒へと誘う男〜」
聖書箇所 マルコ福音書 14章37〜42節 話者 三上 章
聖書協会共同訳
[下線は改善の余地があると私には思われる部分である]
37 それから、戻って御覧になると、弟子たちが眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。 38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」 39 さらに、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう。時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。42 立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」
以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解である.
37 καὶ ἔρχεται καὶ εὑρίσκει αὐτοὺς καθεύδοντας, καὶ λέγει τῷ Πέτρῳ· Σίμων, καθεύδεις; οὐκ ἴσχυσας μίαν ὥραν γρηγορῆσαι;
そして彼(イエス)は来る.そして発見する/彼ら(三人)が眠っているのを.そしてペトロに言う.「シモーン,あなたは眠っているのですか?あなたは力がなかったのですか?/1見張時間,目を覚ます.
37.1 「そして彼(イエス)は来る.そして発見する/彼ら(三人)が眠っているのを」
37.1.1 「そして彼(イエス)は来る」
受難物語の設定としては,少し離れたところで祈っていたイエスが,目を覚ましているように頼んだペトロ,ヤコブ,ヨハネの三人の所に来る.
37.1.2 「そして発見する/彼ら(三人)が眠っているのを」
「眠っている」は,オリーブ山のゲッセマネで眠っていると同時に,イエス・キリストの再来を待望するクリスチャンたちの観点からすると,再来信仰が眠っているということになる.
37.2 「そしてペトロに言う」
マルコ教会の時点では,再来信仰が鈍った教会指導者への警告になる.座禅のピシャーンと肩を叩く警策を連想する.
37.3 「シモーン,あなたは眠っているのですか?」
37.3.1 「シモーン」
シモーンはペトロの元の名前.新しいあだ名「ペトロ」(岩)にそぐわないと言うかのようである.
37.3.2 「あなたは眠っているのですか?」
そのように呼びかけられている人は,他でもなく私である.牧師とか神父とか呼ばれている人である.そういう人はとりわけ自分のあり方に留意する必要がある.
37.4 「あなたは力がなかったのですか?/1見張時間,目を覚ます」
37.4.1 「あなたは力がなかったのですか?」
否定辞「〜でない」(ウーク)+「あなたは力があった」(イスキュサス)が原義.ペトロには覚醒の力が不足していた.
37.4.2 「1見張時間,目を覚ます」
「1見張時間」は90分.ギリシャ語新約聖書を毎日90分学習する牧師はどれだけいるだろうか?その学習意欲はどのようにして得られるだろうか?日々の学習の継続によるしかない.かつて私のヘブライ語文法講座を受講した老牧師から,これまでに千回ヘブライ語旧約聖書を音読なさった聞いた.その影響で,息子さんは,ヘブライ語,アッカド語,シュメール語の大学教員になったそうである.
38 γρηγορεῖτε καὶ προσεύχεσθε, ἵνα μὴ ἔλθητε εἰς πειρασμόν· τὸ μὲν πνεῦμα πρόθυμον ἡ δὲ σὰρξ ἀσθενής.
あなたがたは目を覚ましていてください.そして祈っていてください/あなたがたが誘惑の中に行かないため.(一方で)霊はやる気,(他方で)肉体は弱い」
38.1 「あなたがたは目を覚ましていてください.そして祈っていてください/あなたがたが誘惑の中に行かないためです」
38.1.1 「あなたがたは目を覚ましていてください.そして祈っていてください」受難物語のイエスは,ペトロだけではなく他の二人にも言う.ひいてはマルコ教会のクリスチャンたち全員に言う.
38.1.2 「あなたがたが誘惑の中に行かないため」
これが覚醒と祈りの目的.受難物語としては,敵の罠に陥らない.逮捕されないこと.再来のドグマ信奉の観点からは,イエス・キリスト再来信仰から離脱しないこと.
38.2 「(一方で)霊はやる気,(他方で)肉体は弱い」
誘惑に陥ることは,他人事ではない.自分にも起こりうる.その理由が,格言のような文言で示されている.
39 καὶ πάλιν ἀπελθὼν προσηύξατο τὸν αὐτὸν λόγον εἰπών.
そして再び彼は離れた後,祈った/同じ言葉を語りながら.
39.1 「再び彼は離れた後」
イエスは覚醒にしくじった三人は,二回目の機会を与えられた.
40 καὶ πάλιν ἐλθὼν εὗρεν αὐτοὺς καθεύδοντας, ἦσαν γὰρ αὐτῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καταβαρυνόμενοι, καὶ οὐκ ᾔδεισαν τί ἀποκριθῶσιν αὐτῷ.
そして再び行った後,発見した/彼らが眠っているのを.なぜなら彼らの目は重くされていたからである.そして彼らは知らなかった/何と彼に答えるべきかを.
40.1 「そして再び行った後,発見した/彼らが眠っているのを」
40.1.1 「彼らが眠っている」
三人は再試験に落ちた.そういえばメルボルン大学の医学部では,再試験に落ちた人は退学となったことを思い出す.イエスの学校は寛容である.
40.2 「なぜなら彼らの目は重くされていたからである」
40.2.1 「彼らの目は重くされていた」
これが再試験に落ちた理由である.「目」(オプタルモイ)は,肉体の目であると同時に,魂の目である.歴史のイエスを真に知るためには,眼を重くする妨害を除去する必要がある.その妨害とは,イエスに関する神学的ドグマであり,宗教的先入見である.どのようにしてそれらの重圧を取り除くことができるだろうか?一つは,マルコ福音書を始めとして新約聖書を学問的に学習すること.もう一つは,キリスト教会の洞窟から外に出て,歴史のイエスのように,広く社会の人々と交流することである.
40.3 「そして彼らは知らなかった/何と彼に答えるべきかを」
40.3.1 「彼らは知らなかった」
歴史のイエスについて何も知らなかった.この認識が,覚醒したクリスチャンになる道への第一歩である.
41 καὶ ἔρχεται τὸ τρίτον καὶ λέγει αὐτοῖς· Καθεύδετε τὸ λοιπὸν καὶ ἀναπαύεσθε· ἀπέχει· ἦλθεν ἡ ὥρα, ἰδοὺ παραδίδοται ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου εἰς τὰς χεῖρας τῶν ἁμαρτωλῶν.
そして彼は三度目に来る.そして彼らに言う.「あなたがたはすでに眠っています.そして休んでいます.十分です.その時が来ました.見よ!手渡されます←”人間の息子”は/誤った人たちの手の中に.
41.1 「そして彼は三度目に来る.そして彼らに言う.」
41.1.1 「彼は三度目に来る」
受難物語のイエスは「三」が好きである.二度しくじった生徒に三度目の機会を与える.簡単には学友を見限らない.
41.2 「あなたがたはすでに眠っています.そして休んでいます.十分です」
41.2.1 「すでに」(ト・ロイポンン)
「ト・ロイポン」は,「これからも」を意味するが,「すでに」も意味することができる.文脈から判断して,「すでに」のほうが自然である.受難物語のイエスは,睡眠と休息をむげに否定しない.
41.2.2 「十分です」
睡眠不足はよくないが,睡眠過剰もよくない.
41.3 「その時が来ました」
「その時」とは,逮捕の時.それは裁判へ,そして磔刑に至る.この文言を担う伝承は,イエスの受難に特別の意味を認めている.
41.4 「見よ!手渡されます←“人間の息子”は/誤った人たちの手の中に」
41.4.1 「見よ!手渡されます」
ここのイエスは,自分の運命を予知している.
41.4.2 「“人間の息子”」
歴史のイエスではなく,栄光のメシアが想定されている.
41.4.3 「誤った人たち」(トーン・ハマルトーローン)
「トーン・ハマルトーローン)」は,「ハマルトーロス」の複数属格.「ハマルトーロス」の原義は「誤った人」.「罪人」としてしまうと,挽回の機会がない.「誤った人」なら,挽回の機会がある.
42 ἐγείρεσθε ἄγωμεν· ἰδοὺ ὁ παραδιδούς με ἤγγικεν.
あなたがたは起きてください.私たちは行きましょう.見よ!私を手渡す人が近づきました」
42.1 「あなたがたは起きてください.私たちは行きましょう」
42.1.1 「あなたがたは起きてください」
受難物語の聴衆は,三人が「転んだ」ことを知っている.「転んだ」は,遠藤周作『沈黙』のキチジローへの言及である.棄教を意味する.受難物語の聴衆の中にも転んだ人がいたであろう.イエス・キリストは転んだクリスチャンたちに,起き上がるよう励ます.
42.1.2 「私たちは行きましょう」
もはや気弱なイエスではない.反対者に立ち向かう勇者である.学友たちを共闘にいざなうイエス.
42.2 「見よ!私を手渡す人が近づきました」
42.2.1 「私を手渡す人」
イエスを手渡す人もいるが,マルコ教会のクリスチャンたちとしては,イエスを手渡すつもりは毛頭ない.
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