10/6 マタイ福音書のイエス (第14回) ~〈聖なる霊と火によるバプティスマ〉の意味~
- 平岡ジョイフルチャペル
- 2024年10月6日
- 読了時間: 6分
2024年10月6日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第14回)
~〈聖なる霊と火によるバプティスマ〉の意味~」
聖書箇所 マタイ福音書 3章10〜12節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
※下線は修正の余地があると思われる部分
10 斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11 私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。12 その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」

以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.
10 ἤδη δὲ ἡ ἀξίνη πρὸς τὴν ῥίζαν τῶν δένδρων κεῖται · πᾶν οὖν δένδρον μὴ ποιοῦν καρπὸν καλὸν ἐκκόπτεται καὶ εἰς πῦρ βάλλεται.
既にその斧は木どもの根に向けて置かれている.だからどの木も←良い実を結ばない/切り離され,火の中に投げられる.
10.1「既にその斧は木どもの根に向けて置かれている」
10.1.1 パリサイ党員・サドカイ党員らユダヤ教の指導者たちのおごり高ぶり
浸礼者ヨハネは,彼の教団に加入するためにやって来た人たちに言う.その人たちの中には,パリサイ党員・サドカイ党員らユダヤ教の指導者たちも含まれる.彼らには,自分はひとかどのユダヤ教徒であるという自負心があった.彼らの信仰は,彼らの神ヤハウェに喜ばれていると,思い込んでいた.はればれとした気分で,入団儀式としてのバプティスマに臨もうとしていた.しかし,浸礼者ヨハネのいうバプティスマは,単なる儀式ではない.それはもっと重要な真理を指さしている.その真理とは,回心(メタノイア)である.心を改めるだけではなく,行動も改めること.それが回心である.
10.1.2 浸礼者ヨハネの切り込み
重要なことは,いわゆる信仰は行動を伴っているかである.その信仰が良い行いの実を結んでいるかである.その部分は,彼らの触れられたくない秘められた暗闇である.その暗闇にヨハネはメスをいれる.その暗闇を冷徹に見透かし,明るみに出す.それがこの文言である.
10.1.3 「その斧」
ヨハネは言う.神はその手に斧を取り上げようとしている.斧は有罪と重い量刑を象徴する.ヨハネの想念する神は,怒りの神である.
10.1.4 「木ども」
「木ども」は,中味のない偽りの信仰者たちを象徴する.
10.1.4 「根に向けて置かれている」
怒りの神が振りかざすであろう斧は,信仰詐欺師たちを根こそぎ切り倒すことになると,ヨハネは言う.
10.2 「だからどの木も←良い実を結ばない/切り離され,火の中に投げられる」
良い行動の伴わない信仰者は切り倒され・切り離され,その結末として「火」の中に投げ込まれる.火といっても,いろいろな火がある.かまどや暖炉やたき火のような良い火もあれば,山火事や火山噴火や地獄のような悪い火もある.ここでは,後者を想像するとよい.
11 Ἐγὼ μὲν ὑμᾶς βαπτίζω ⸃ ἐν ὕδατι εἰς μετάνοιαν · ὁ δὲ ὀπίσω μου ἐρχόμενος ἰσχυρότερός μού ἐστιν, οὗ οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς τὰ ὑποδήματα βαστάσαι · αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί ⸃·
この私はあなたたちを浸す←水の中で←回心のために.しかし私の後に来つつある人は,私より力がある.私には資格がない←その人のサンダルを運ぶ.彼はあなたたちを浸す←聖なる風と火の中で.
11.1 「この私はあなたたちを浸す←水の中で←回心のために」
11.1.1 「この私は・・・しかし私の後に来つつある人は」
「メン」(一方では)・・・「デ」(他方では)の対比.ヨハネは自分とイエスを対比する.
11.1.2 「回心のために」
ヨハネはバプティスマ志願者たちに,この儀式は「回心」のためであるとを明言する.バプティスマを受けたからといって,回心は即時に実現するわけではない.入団者は,この儀式を皮切りに,人里はなれたヨハネ教団の中で,不退転の修行を積み重ねていくことが求められる.
11.1.3 永平寺の修行道場を想像するとよい.

11.2 「私の後に来つつある人は,私より力がある」
イエスのことを言っている.ヨハネにとって,イエスは後輩であるにもかかわらず,自分よりこのイエスのほうが力があることを認めている.なかなかできないことである.自分をよく知り,イエスをよく知っていたヨハネだからこそ,心の底からそのように言うことができた.

11.2.1 道元に師事した懐奘を想起する.懐奘は,今をときめく仏道者であったが,自分より数歳年下の道元の卓越した力を素直に認め,道元の侍者となり,彼の下で20年ほど学習した.「力がある」というが,何の力か?人格の力である.そこからあふれ出る他者を益する力である.
11.3 「私には資格がない←その人のサンダルを運ぶ」
「サンダルを運ぶ」とは草履持ちのこと.それは奴隷の仕事.イエスという主人の奴隷になる資格さえないと,ヨハネは言う.雲泥の差があることを深く認識している.
11.4 「彼はあなたたちを浸す←聖なる風と火の中で」
「浸す」といっても,イエスのバプティスマは水の中に浸すのではない.「聖なる風と火の中で」浸す.儀式のことではなく,イエスが人々に及ぼす圧倒的な感化の力のことを言っている.「聖なる風と火」をギリシア語原文の通りに訳すと,「風・聖なる・そして火」である.「風」と訳した「プネウマ」は,「息」「風」が原義.ここでは「風」が適合する.微風ではなくやや強風を想像するとよい.それは「聖なる」風である.「聖なる」と訳した「ハギオス」は,「神々に捧げられた」「神聖なる」が原義.この形容詞が「風」を修飾する.ただの風ではなく,神聖な風,神に由来する風である.この「ハギオス」は「火」をも修飾すると思われる.神聖な火,神に由来する火である.神の風と神の火が,回心を願う人たちに及ぼす働き・影響は何か?

12 οὗ τὸ πτύον ἐν τῇ χειρὶ αὐτοῦ, καὶ διακαθαριεῖ τὴν ἅλωνα αὐτοῦ καὶ συνάξει τὸν σῖτον αὐτοῦ εἰς τὴν ἀποθήκην, τὸ δὲ ἄχυρον κατακαύσει πυρὶ ἀσβέστῳ.
彼の箕は彼の手の中にある.そして脱穀場を清め尽くす.彼の穀物を倉の中に集める.しかしもみ殻の山は,消えない火で焼き尽くす.
12.1 「彼の箕は彼の手の中にある.そして脱穀場を清め尽くす」
イエスの手の中にある箕は,中身のある穀物と空虚な穀物をふるい分ける.それが「清め尽くす」ということである.「脱穀場」とは,いわば神の裁判所である.裁判長なる神の前で,人々は裁判を受けなければならない.そこでは無罪か有罪かが決定される.それが「清め尽くす」ということである.神を代弁するイエスは,自分の前に立つ人が有罪か無罪かを明らかにする.
12.2 「彼の穀物を倉の中に集める.しかしもみ殻の山は,消えない火で焼き尽くす」
神の判決は二重である.「彼の穀物」(単数形)とは,良い行いの実を結ぶ宗教者であり,その数は少ない.その人は神の倉に集められ,神と人のために役立つ.「もみ殻の山」は,良い行いの実を結ばない宗教者であり,その数は多い.その人は神と人に対して何の役にも立たず,空しい人生を送る.神がその人をというよりは,その人が自分自身を「消えない火で焼き尽くす」.自分が自分に有罪を宣告し,担いきれない量刑を引き受けることになる.
こういうヨハネの厳しい宗教観は,私に良い行いへの強烈なうながしを与える.
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