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  • 執筆者の写真平岡ジョイフルチャペル

10/29 マルコ福音書のイエス (第137回)~自己の正体の理解を遮る男〜

2023年10月29日 主日礼拝

聖書講話  「マルコ福音書のイエス (第137回)~自己の正体の理解を遮る男〜」

聖書箇所   マルコ福音書 14章26〜31節   話者 三上 章


聖書協会共同訳

 [下線は改善の余地があると私には思われる部分である]

「26 一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。 27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、私につまずく。/『私は羊飼いを打つ。/すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。28 しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」29 するとペトロが、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」と言った。30 イエスは言われた。「よく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」31 ペトロは言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」


 以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解である.


26 Καὶ ὑμνήσαντες ἐξῆλθον εἰς τὸ Ὄρος τῶν Ἐλαιῶν.

そして彼らは賛美歌を歌った後,出ていった/オリーブ(複数形)の山の中へ.

26.1 26-31節は付加

 26-31節は福音書記者マルコまたは彼以後の誰かの創作による付加の可能性が高い.イエスの逮捕劇を入念に脚色しようとしていることになる.

26.1.1 「彼らは賛美歌を歌った後」

 イエスと12人は,エルサレムに所在するある家の2階で会食していた.その終わりに讃美歌を歌った.これが過越の食事会の証拠であると見なす見解もあるが,結論を急いではならない.特別の食事会に限らず,日常の食事の終わりに讃美歌を歌うことは,ユダヤ教徒にとって普通のことであった.讃美歌は,もし過越の食事ならば,ミシュナーによると,詩編.これを「ハレル」という.

26.1.2 「出ていった/オリーブの山の中へ」

 場面はオリーブ(複数形)の山に転じる.


27 Καὶ λέγει αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς ὅτι Πάντες σκανδαλισθήσεσθε, ὅτι γέγραπται· Πατάξω τὸν ποιμένα, καὶ τὰ πρόβατα διασκορπισθήσονται.

そして彼らにイエスは言う.「あなたがたは全員罠にはまるでしょう.なぜなら(以下のように)書かれています.「私はその羊飼を打ちのめすでしょう.そしてその羊たちは散らされるでしょう」

27.1 「そして彼らにイエスは言う」

 オリーブの山のどの場所か,あるいは途上かは示されることなく,12人にイエスは言う.この辺りが創作っぽい.


27.2 「あなたがたは全員罠にはまるでしょう」

27.2.1 「全員」

 12人全員.例外はない.

27.2.2 「罠にはまるでしょう」

 ギリシャ語は「スカンダリゾー」の未来直説法受動相2人称複数.LSJ古典ギリシャ語辞典によると,原義は「あなたがたはよろめかせられるでしょう」,「あなたがたはつまずかされるでしょう」,「あなたがたは怒らせられるでしょう」.どうもしっくりしない.他方,VGTギリシャ語辞典は,「罠にはめられる」という解釈を提案している.こちらのほうがしっくりする.「とんだ落とし穴」というやつである.注意していないと落っこちる.自信満々の人ほどはまりやすい.

 イエスは12弟子の無知を見抜いている.彼らはイエスを知っている.イエスと切っても切れぬ仲間であると同定している.イエスを知り抜いていると思い込んでいる.


27.3 「なぜなら(以下のように)書かれています」

 旧約聖書=LXX訳ギリシャ語聖書を引き合いに出している.後ろ盾を頼みとしないマルコらしからぬ言い方.マルコ以後の付加の可能性がある.文字通りの引用ではない.引用者による改変が行われている.

23.3.1 引用箇所は,『ゼカリア書』13章7節

Ῥομφαία, ἐξεγέρθητι ἐπὶ τοὺς ποιμένας μου καὶ ἐπʼ ἄνδρα πολίτην μου, λέγει κύριος παντοκράτωρ· πατάξατε τοὺς ποιμένας καὶ ἐκσπάσατε τὰ πρόβατα, καὶ ἐπάξω τὴν χεῖρά μου ἐπὶ τοὺς ποιμένας.

「剣よ,起こされよ/羊飼いたちの上に,そして私の男子市民の上に/と全能の主は言う.あなたがたは羊飼いたちを打ちのめしなさい/そして羊たちを引き出しなさい/そして(そうすれば)私は私の手を羊飼いたちの上に連れてくるでしょう」


27.4「私はその羊飼を打ちのめすでしょう.そしてその羊たちは散らされるでしょう」

27.4.1 「その羊飼い」

 古代世界では政治や軍事の指導者を意味する.「羊飼いたち」は民衆である.ここでは,「その羊飼い」はイエス.「その羊たち」は12人.

27.4.2 「私は打ちのめすでしょう.・・・散らされるでしょう」

 古代ギリシャのポリス世界の戦争を彷彿とさせる.戦勝したポリスが,敗戦したポリスの将軍と男性市民全員を一人残らず処刑する.女性や子どもたちは奴隷として連れて行かれる憂き目に遭う.

27.4.3 「私は打ちのめすでしょう」 

 「私」は神を指す.神の主導権を全面に打ち出している.この文言を引用したクリスチャンたちは,イエスと12人の上に降りかかったいわば集団殺害ともいうべき敗北を,「預言」として,すなわち神慮によるものとして,理解し説明しようとしている.神慮といえば納得する人もいるかもしれないが,私には言い逃れに聞こえる.歴史上の出来事は,何はともあれそのままに見ることが重大である.安易に歴史認識という名の主観的解釈に飛躍すべきではない.


28 ἀλλὰ μετὰ τὸ ἐγερθῆναί με προάξω ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν.

しかし私が起こされる後,私はあなたがたを先導するでしょう/ガリラヤの中に」


28.1 「私が起こされる後」

 「起こされる」(エゲルテーナイ)は,前節の「起こされよ」(エゲルテーティ)と共鳴する.かのエゲルテーティは,剣が起こされよ.12人の全滅を示唆する.ここのエゲルテーナイは,イエスが死者たちの中から起こされること,すなわち復活を示唆する.12人の全滅は,悲劇で終わらない.復活したイエスが事態を逆転するという,初期キリスト教のクリスチャンたちによる信仰の表明である.


28.2 「私はあなたがたを先導するでしょう/ガリラヤの中に」

 「私はあなたがたを先導するでしょう」(プロアクソー)も,前節の「エパクソー」と共鳴する.「エパクソー」の定動詞形は「エパゴー」.「エピ」(上に)+「アゴー」(連れて行く),すなわち「上に持ってくる」.敵が剣を持つ手を味方の上に連れて行く.つまり,味方は敵の剣で殺害される.本節の「プロアクソー」の定動詞形は「プロアゴー」,「プロ」(前に)+「アゴー」(連れて行く),すなわち「先頭に立って連れて行く」.つまり「先導する」.復活したイエスは,処刑されたに等しい12人を敗北から復活させ,戦勝した将軍さながら彼らを先導し,故郷のガリラヤに凱旋する.キリスト教が最初に芽生えた地は,ガリラヤであったことを偲ばせる.


29 ὁ δὲ Πέτρος ἔφη αὐτῷ· Εἰ καὶ πάντες σκανδαλισθήσονται, ἀλλ’ οὐκ ἐγώ.

ペトロスは彼(イエス)に言った.「たとえ全員が罠にはまりましょうとも,しかしこの私は(罠にはまることは)ない(でしょう).

29.1 「ペトロスは彼(イエス)に言った」

29.1.1 「ペトロス」

 ペテロはギリシャ語ではペトロス.ラテン語ではペトルス.イタリア語ではピエトロ.スペイン語・ポルトガル語ではペドロ.ウクライナ語ではペトロ.いったい何語か?ペトロは本名ではなくあだ名.本名はシモーン(シメオンの短縮形).

29.2 「たとえ全員が罠にはまりましょうとも,しかしこの私は(罠にはまることは)ない(でしょう)」

29.1 「たとえ全員が罠にはまりましょうとも」 

 この文言は,ペテロを12人の代表としている.ペテロは,12人の中で自分は一番である.他の者とは違うのだと言い張る.もちろん聴衆はこれが茶番であることを知っている.


30 καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Ἀμὴν λέγω σοι ὅτι σὺ σήμερον ταύτῃ τῇ νυκτὶ πρὶν ἢ δὶς ἀλέκτορα φωνῆσαι τρίς με ἀπαρνήσῃ.

そして彼(ペトロス)にイエスは言う.「アメーン.私はあなたに言います.あなたは今日今夜/二度一羽の雄鳥が声を出す前に/三度私を否認するでしょう」


30.1 「アメーン.私はあなたに言います」

 「アメーン」は厳かな断言を意味する.ペテロの人間的断言に対して,イエスは神的断言をもって答える.イエスの死後,歴史のイエスは信仰のキリストに神格化された.この神的イエスに付託して,初期のクリスチャンたちは言う,


30.1 「あなたは今日今夜/二度一羽の雄鳥が声を出す前に」

30.1.1 「あなた」(シュ)

 「シュ」は,強調の人称代名詞.「他でもなくあなたは」という意味合い.ペトロはイエスの言葉を他でもなく自分のこととして受け止めなければならない.「まさか私は」などと甘い考えを起こしてはならない.


30.1.2 「今日今夜」

 いつかではなく,まさしく今夜.人間は一分一秒先をも見ることができない.まさしく今夜などとは思わない.思いたくない.イエスは,まさしく今夜だと明示する.イエスは先を見ることができる.イエスの神格化が見て取れる.歴史のイエスではなく信仰のキリストの発言の領域に属する.

30.1.3 「二度一羽の雄鳥が声を出す前に」

 ヘブライ方式によると,夜は4つの見張り時間に分けられた.1)見張り時間の始まり.夕刻. 2)真ん中の見張り時間.真夜中.3)鶏鳴.コケコッコー.4)朝の見張り時間.夜明け.おそらくローマ方式に即した時刻区分.

 ローマ方式では,夜を四つの見張り時に分けた.一つの見張り時が一時間半で,一番時が夜の12時.二番時が夜の真ん中.三番時がガッリキニウムで,鶏鳴時.コケコッコー.四番時がコンティキニウムで,鶏鳴が終わる時間.5番時がディルクルムで,夜明け.おそらく古代ローマ人たちは,時間の告示のためにラッパを3回鳴らした.もしそうであるならば,「二度一羽の雄鳥が声を出す前に」は,ラッパが鳴り止む前にということになる.


30.1.4 「三度私を否認するでしょう」

 「三度」とは,二つの見張り時に相当する三時間の中で三回ということ.初期キリスト教の事情を反映しているかもしれない.小プリニウスがトラヤヌス帝に宛てた書簡によると,小プリニウスは,クリスチャンとして告発された人に二回否認の機会を与え,三回目も否認しない者を処刑した(『プリニウス書簡集』X,XCVI.3, 5; XCVII).「否認するでしょう」(アパルネーセー)は強い表現.「断固として否定する」「断固として認めない」という意味合い.命に代えても従いますという舌の先が乾かない内に,離反する.否認する.見捨てる.それも人間の性である.


31 ὁ δὲ ἐκπερισσῶς ἐλάλει· Ἐὰν δέῃ με συναποθανεῖν σοι, οὐ μή σε ἀπαρνήσομαι. ὡσαύτως δὲ καὶ πάντες ἔλεγον.

しかし彼(ペトロ)は過度に言った.「わたしがあなたと共に苦しみを受けようとも,私は決してあなたを否認いたしません」同じように全員も言った.


31.1 「しかし彼(ペトロ)はさらに過度に言った」

 「過度に」(エクペリッソース)は,前よりもずっともっと語気を強めて断言したということ.

31.2 「わたしがあなたと共に苦しみを受けようとも,私は決してあなたを否認いたしません」

 このペテロの断言は,聴衆には空ろな叫びにしか聞こえない.人間は不完全なので自分を知ることができない.

31.3 「同じように全員も言った」

 安全な時には何とでも言える.いざ危険にさらされると,人間は豹変する.


結論.イエスの正体を知ることはほとんど不可能である.その理由は,ほんとうは知らないのに知っていると思い込んでいることによる.いかにして自己の思い込みを打破し続けるかが,イエス探求の課題である.

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