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10/27 マタイ福音書のイエス (第16回) ~〈神の「気」の視覚化〉を検討する

執筆者の写真: 平岡ジョイフルチャペル平岡ジョイフルチャペル

2024年10月27日 主日礼拝

聖書講話     「マタイ福音書のイエス (第16回)

                  ~〈神の「気」の視覚化〉を検討する~」 

聖書箇所    マタイ福音書 3章16~17節   話者 三上  章



[聖書協会共同訳]  

      ※下線は修正の余地があると思われる部分

16 イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。17 そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


 以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.


16 βαπτισθεὶς δὲ ⸃ ὁ Ἰησοῦς εὐθὺς ἀνέβη ⸃ ἀπὸ τοῦ ὕδατος · καὶ ἰδοὺ ἠνεῴχθησαν οἱ οὐρανοί, καὶ εἶδεν πνεῦμα θεοῦ καταβαῖνον ὡσεὶ περιστερὰν ἐρχόμενον ἐπ’ αὐτόν ·

浸された後←イエスは,直ちにその水から上がった.そして,見よ!開かれた←諸天が.そして彼は見た/神の気が下って来るのを/鳩のように/やって来るのを←彼の頭頂に.


16.1 「浸された後←イエスは,直ちにその水から上がった」

16.1.1 「浸された後←イエスは」

 この時点までは,イエスは,ヨハネ教団への入団を希望する他の人たちと同様に,ヨハネによって水の中に浸された.

16.1.2 「直ちに」

 しかし,それも束の間.直ぐに,イエスは新たな独自の展開を迎えることになる.

16.1.3 「その水から上がった」

 「上がった」と訳した「アナバイノー」は,「昇る」という意味ももつ.ここでは二重の意味があると解釈することができる.イエスは水の中から上がったが,それは同時に諸天に昇ることでもあった.彼の体は水の中から上がったが,彼の心は,彼の精神は,彼自身は諸天に昇って行った.神々の住む諸天の遙か上へ向かって,それらを一つずつ超え,さらに上へ,ついには究極の天に向かって昇って行った.諸宗教の神々を超え,究極の最高神に向かって昇って行った.


16.2 「そして,見よ!開かれた←諸天が」

 「開かれた」の主語は,「諸天」である.「天」は「ウーラノス」というが,その複数形なので「諸天」と訳した.当時,一般に,天は天蓋(ドーム)の重層から成ると考えられていた.一番下のドームにはより低級の神々が住み,上のドームに行けば行くほど,より高級な神々が住んでいる.そして最上部に住む神が究極の神であり,もはや神という用語では言い表すことができない絶対者である.そして諸天は,人間たちに対して閉じられていた.人間たちはそれらに昇ることができない.それらの天が「開かれた」という.驚くべき現象である.「見よ!」(イドゥー)という間投詞が使用されている所以である.この超自然的現象は,普通の人間には起こらない.イエスだからこそ,それを実体験することができた.


16.3 「そして彼は見た/神の気が下って来るのを/鳩のように/やって来るのを←彼の頭頂に」

16..3.1 「彼は見た」

 通常の眼が見る「見た」ではない.人間の目はあまりにも暗く,真理を見ることができない.イエスの眼は真理を見た.光である神がイエスの眼を照らした.イエスの眼は神の光に照らされて,真理を見ることができるようにされた.イエスの生涯における最大の体験であり,決定的な転機である.

 この宗教的体験は,『般若心経』で「観自在菩薩」と訳されている「アヴァローキテーシュウァラ(Avalokitesvara)」に例えることができるかもしれない.このサンスクリットは,ava (遍く)・lokita(見る)・isvara(自在)の三つの語からなる合成語.仏教的真理に照らされて,あらゆる時代のあらゆる人々の救いを求める「声」を「観る」ことができる「覚者」(ブッダ),それが「観自在菩薩」.漢訳『妙法蓮華経』では「観世音菩薩」.あるいは道元の『正法眼蔵』における「眼」.それは仏教的真理(ダルマ)に照らされた眼,ダルマを見抜くことができる眼である.

16.3.2 「神の霊が下って来る」

 「神の霊」をどのように理解することができるだろうか?それを理解することができるためには,人間の理解力はあまりにも僅かであり,かぎられている.「気」と訳した「プネウマ」は,「蒸気」「風」「息」が原義である.日本語訳聖書では伝統的に「霊」と訳されてきた.「霊」という漢字は,元来,「たま」「神のみたま」「不思議な力や働きをもつ存在」が原義である.今一つしっくりこない.

 他方,「気」という漢字の語源は,一説によると「エネルギーが八方に広がっている様子」.それが,「空気」「水蒸気」「息」といった意味で用いられる.そしてさらに「元気」「活力」「いきおい」といった意味に派生していく.気を含む用語は,大気,空気,気象,気力,気合い,気分など数えきれないほどである.したがって,暫定的に「気」を使用する.

 ここでの「気」は単なる気ではない.「神の気」である.それが下って来る.神に属する気が下って来る.神のもつ息が吹きかけて来る.どのようにしてか?

16.3.3 「鳩のように」

 「のように」(ホーセイ)は,二通りに解釈することができる.一つは,鳩が空から降りてくるように,神の気が降りてくる.重点は,降りてくることに置かれる.もう一つは,鳩のような形をした神の気が降りてくる.重点は,鳩のような形に置かれる.鳩の形であれ何の形であり,目に見えない神の気を視覚化するようなことは,普通の人間はやってはいけない.擬人神観に堕する危険がある.しかし,イエスの場合は別だ.彼に特別にそなわる炯眼,すなわち極めて鋭い眼力が,神の気をそのような形として視覚たとしても,あながち不思議ではない.

16.3.4 「やって来るのを←彼の頭頂に」

 神の気はイエスの頭の方へやって来た.「彼の頭頂に」と訳した「エパイトン」は,「エピ」という前置詞と「アウトン」という代名詞の組み合わせ.「アウトン」は「彼(イエス)」を指す.問題は「エピ」である.原義は「〜の上に接して」であるが,単に「〜の方へ」という意味で使用されることもある.しかし,ここでは神の気はイエスの方へやって来たが,イエスの頭上に漂ったままであるとか,イエスを素通りしていったということは,考えにくい.やはり,神の気はイエスの頭にちゃんと着陸したと考えるほうが,妥当である.したがって,「彼の頭頂に」と訳した.神の気はイエスの頭に明確にやどった.その気はイエスの身体と心に充満した.これをもってイエスは神の気に導かれ,神の気に従い,神の気を発揮する存在となった.イエスは,イエスだからこそ,神の気を鳩の形で視覚した.


17 καὶ ἰδοὺ φωνὴ ἐκ τῶν οὐρανῶν λέγουσα · Οὗτός ἐστιν ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν ᾧ εὐδόκησα.

そして,見よ!声←諸天からの.曰く.「この人は,私の息子・寵愛の(息子)です.彼を私は喜ぶ」

17.1 「見よ!声←諸天からの」

 イエスの超自然的体験は,視覚だけではなく聴覚にも及ぶ.そばにいた浸礼者ヨハネや他の人たちにその声は聞こえただろうか?ヨハネほどの人ならば,聞こえたかもしれない.他の人はまず無理だろう.聞こえるためには,相当の,いやそれ以上の修行を積まなければならないだろう.それでも,神の恵みと許可がなければ不可能だろう.

17.2 「この人は,私の息子・寵愛の(息子)です.彼を私は喜ぶ」

 イエスは神にとって超親密な存在.神はイエスにとって超親密な存在.イエスは,神を身近に感じ,神に愛されているという強い自覚をもって,神と共に歩むことになる.イエスには恐れるものは何もない.ひたすら神の中に,神の光の中に,永遠のいのちの中にあるのみである.

 
 
 

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