2023年10月22日 主日礼拝
聖書講話 「マルコ福音書のイエス(第136回)
~パンとカップの儀式をどのように理解するか〜」
聖書箇所 マルコ福音書 14章22〜25節 話者 三上 章

以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解である.
22 Καὶ ἐσθιόντων αὐτῶν λαβὼν ἄρτον εὐλογήσας ἔκλασεν καὶ ἔδωκεν αὐτοῖς καὶ εἶπεν· Λάβετε, τοῦτό ἐστιν τὸ σῶμά μου.
そして彼らが食事をしていた時/彼はパンを取り/(神を)称えた後,(そのパンを)裂いた.そして彼ら(12人)に与えた.そして言った.「あなたがたは受け取ってください.これは私の体です」
22.1 伝承史的考察
22.1.2 「彼らが食事をしていた時」
18節ですでに食事の場面が語られているのに,ここ22節で再び食事の場面が導入される.文脈上のつながりが悪い.おそらくここ22-25節は,福音書以前のイエスの受難物語伝承とは異なる伝承に属する.それには受難物語が含まれていなかった.
22.1.2 「彼はパンを取り・・・カップを取った後」
文脈上は過越の食事が想定されるが,パンとカップは過越の食事の一部ではない.
この箇所の文学類型は,ブルトマンの言う「ヘレニスト集団の宗教儀式伝説」に分類するのが妥当であろう.
22.2 「彼はパンを取り/(神を)称えた後,(そのパンを)裂いた.そして彼ら(12人)に与えた」
マルコ福音書 6章41節から始まる「5千人の供食」の冒頭と似ている.8章6節にも,これと似た「4千人の供食」の説話がある.いずれもユダヤ教徒の日常の食事において行われる作法である.日本人の「いただきます」に相当する.生前のイエスにとっては,宗教儀式ではない.
22.3 「あなたがたは受け取ってください.これは私の体です」
字義通りではなく象徴的表現であろう.もし人肉嗜食と解釈するなら,24節の「これは私の血です」と相まって,非常にグロテスクである.しかしマルコのイエスは,「肉を食べなさい」とは言っていないし,「血を飲みなさい」とも言っていない.
むしろ人身御供を連想するのが妥当であろう.それでもグロテスクである.ユリウス・カエサルはその著作『ガリア戦記』VI.16 の中で,ガリアのドルイド僧は病気を祓い清めるためん,人間を生け贄として捧げ,神々の像の中で焼いた.また囚人の心臓にナイフを突き立て,その血の流れによって未来を占っていたと言う.
このような人身御供の観念を土台として,初期キリスト教のクリスチャンたちは,イエス・キリストによる,罪を帳消しにする「身代わりの死」の教説を構築していった.
ここでのパンとカップは,もちろんミサあるいは聖餐式の制定ではない.むしろ贖罪の教説の言明である.ただし,この言明がマルコ以前の伝承に属するのか,それともマルコの思想に属するのかは,簡単には決定できない.私の考えでは,マルコは「身代わりの死」を強調していない.むしろイエスと学友たちの共食に焦点を当てている.
23 καὶ λαβὼν ποτήριον εὐχαριστήσας ἔδωκεν αὐτοῖς, καὶ ἔπιον ἐξ αὐτοῦ πάντες.
そして彼(イエス)はカップを取った後,(神に)感謝をささげてから,彼らに与えた.そして飲んだ/それ(カップ)から/(12人の)全員が.
23.1 「彼(イエス)はカップを取った]
パンだけではなくカップにも焦点が当てられている.
23.2 「飲んだ/それ(カップ)から/(12人の)全員が」
23.2.1 「飲んだ/それ(カップ)から」
12人はカップを回し飲みをした.過越の食事の作法である.日常の食事では,カップの回し飲みは行われなかった.マルコ教会においては,パンとカップの儀式が流通していたことが示唆される.ただし,生前のイエスの時点では,パンとカップは,あくまでも日常的な共食にすぎなかった.
23.2.2 「(12人の)全員」
12人はイエスと共に食事をしたという話しになっている.「12人」に限定していることに注目.初期キリスト教会における12弟子崇拝の気運を反映していると思われる.聖職者は一般信徒より偉いという,聖職者本位の思い上がり.しかし,パンとカップの儀式を執行することができるのは,聖職者たちだけではない.私たち一般人も,ご飯とみそ汁を食する時,イエスと共にパンとカップの作法を行っている.
24 καὶ εἶπεν αὐτοῖς· Τοῦτό ἐστιν τὸ αἷμά μου τῆς διαθήκης τὸ ἐκχυννόμενον ὑπὲρ πολλῶν.
そして彼は彼らに言った.「これは私の血です←その契約の/注ぎ出されている←多くの人たちのために.
24.1 「これは私の血です←その契約の」
24.1.1 「私の血」
「血」は,ヘブライ語で「ダーム」(dām). ギリシャ語で「ハイマ」(haima).聖書では両方とも,殺されることによって流される血を意味する.ここではユダヤ教の供犠における,牛や羊などの犠牲獣の流血を示唆する.
24.1.2 「その契約の」
「契約」(ディアテーケー)とは,旧約聖書の概念.一方において,ユダヤ教徒がヤハウェが命じた掟を守るならば,他方において,ヤハウェはユダヤ教徒たちに恩恵を与えるという契約.
24.2 「注ぎ出されている←多くの人たちのために」
24.2.1 「注ぎ出されている」
空のカップの中に,ワインがイエスによって注ぎ出されている情景が思い浮かぶ.
24.2.2 「多くの人たちのために」
「多くの人たち」は,不特定多数の人たちではなく,マルコ教会に関係する「多くの人たち」を指すと考えられる.マルコ教会に加入し,所属するクリスチャンたちは,パンとカップの儀式を遵守した.そういう仲間がもっと多くなればいい,多くなるようにイエス・キリストを広めようという気持ちをくみ取ることができる.
25 ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι οὐκέτι οὐ μὴ πίω ἐκ τοῦ γενήματος τῆς ἀμπέλου ἕως τῆς ἡμέρας ἐκείνης ὅταν αὐτὸ πίνω καινὸν ἐν τῇ βασιλείᾳ τοῦ θεοῦ.
アメーン,私はあなたがたに言います.「もはや決して私は飲みません/ブドウから生成したものを/彼の日まで←それを私が新しいものとして飲む/神の王国で」
25.1 「アメーン,私はあなたがたに言います」
イエスは 厳かにはっきりと宣言する.この節が元来の伝承に含まれていたのか,それとも福音書記者マルコの創作によるものかは,明らかではない.
25.2 「もはや決して私は飲みません/ブドウから生成したものを」
イエスの死を示唆する.イエスは復活するまで,12人との共食には出席しない.ここでは復活のドグマが前提とされている.
25.3 「それを私が新しいものとして飲む/神の王国で」
25.3.1 「新しいもの」(カイノン)
カイノンは,ボジョレー・ヌーボーを連想させる.ボジョレーは「ブルゴーニュ地方南部のボジョレー地区で造られたワイン」.「ヌーボー」は「新しい」.「ブルゴーニュ産新酒ワイン」という意味になる.「ヌーボー」は,ブドウの収穫における期待と喜びを示唆する.この節における「カイノン」,すなわち新酒ワインは,地上のものではなく天上で飲むワインである.背後にギリシャ神話のモチーフが感じられる.
25.3.2 「神の王国」
イエスの「人間の息子」としての再臨のドグマを示す.再臨によって,イエスは神の王国を創立する.そこにおいて12人はイエスと共に新酒ワインを堪能する.
かなり現実から遊離した,願望的かつ幻想的な考えの表明である.社会の現実に密着して生きたイエスからほど遠い.そのイエスに賛同して生きたマルコからも遠い.とするならば,幻想的なクリスチャンたちが,マルコ福音書に後から付け加えた文言の可能性が高い.
結び.パンとカップは,生前のイエスと学友たちにとっては共食.後のキリスト教会にとっては儀式.マルコ教会にとっては,その狭間として,バンとカップは共食の一部.とはいえ厳かな一部,といったところだろうか.
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