2025年1月19日 主日礼拝
聖書講話 「ある知者の洞察 (第39回)~子沢山・長寿は幸福か?〜」
聖書箇所 コヘレトの言葉 6章3〜6節

[聖書協会共同訳]
[下線は改善の余地があると私には思われる部分]
3 人が百人の子どもを得て/長い年月を生きたとする。/人生の歳月は豊かであったのに/その幸せに心は満たされず/また埋葬もされなかった。/ならば、死産の子のほうが幸いだ/と私は言おう。4 確かに、その子は空しく生まれ、闇を歩み/その名は闇に覆われる。5 太陽を見ることも知ることもないが/この子のほうが彼よりも安らかである。6 たとえ千年を二度生きても、人は幸せを見ない。/すべての者は一つの場所に行くのだから。
以下は,ヘブライ語(MT)とギリシャ語訳原文(LXX)の解明に基づく三上の私訳と講解.両者とも,各用語の解明に基づく逐語訳に努めた
3
אִם־יוֹלִ֣יד אִ֣ישׁ מֵאָ֡ה וְשָׁנִים֩ רַבֹּ֨ות יִֽחְיֶ֜ה וְרַ֣ב ׀ שֶׁיִּהְי֣וּ יְמֵֽי־שָׁנָ֗יו וְנַפְשׁוֹ֙ לֹא־תִשְׂבַּ֣ע מִן־הַטּוֹבָ֔ה וְגַם־קְבוּרָ֖ה לֹא־הָ֣יְתָה לֹּ֑ו אָמַ֕רְתִּי טֹ֥וב מִמֶּ֖נּוּ הַנָּֽפֶל׃
もし生むであろうなら←人が100人を,そして多くの歳を生きるであろうなら,そして多いならば←存在するであろう年々の日々が,そして彼の魂が満たされないならば←そのよいことに,そしてまた葬送が生じないなら←彼のために/私は言った.「よい←彼よりも←その流産が」
ἐὰν γεννήσῃ ἀνὴρ ἑκατὸν καὶ ἔτη πολλὰ ζήσεται, καὶ πλῆθος ὅ τι ἔσονται ἡμέραι ἐτῶν αὐτοῦ, καὶ ψυχὴ αὐτοῦ οὐκ ἐμπλησθήσεται ἀπὸ τῆς ἀγαθωσύνης, καί γε ταφὴ οὐκ ἐγένετο αὐτῷ, εἶπα Ἀγαθὸν ὑπὲρ αὐτὸν τὸ ἔκτρωμα,
もし生むであろうなら←人が100人を,そして多くの歳を生きるであろうなら,そして多いならば←存在するであろう年々の日々が,そして彼の魂が満たされないならば←そのよいことに,そしてまた葬送が生じないなら←彼のために/私は言った.「よい←彼よりも←その流産が」
3.1 ヘブライ語聖書(MT)とギリシア語聖書(LXX)
MTにLXXは,逐語的に一致している.
3.2 「もし生むであろうなら←人が100人を」
3.2.1 「もし・・・なら」
仮の話ではあるが,コヘレトは特定の人を念頭においているかもしれない.
3.2.2 「生むであろう」
子どもの誕生はそれ自体はよいものである.それがなければ,人類は滅亡する.コヘレトは,子どもの誕生の意味を掘り下げようとしている.
3.2.3 「人」(イッシュ)
イッシュの原義は「男性」.男性にかぎらず人間全般を意味することもできる.ここでは前者,特に富豪な男性をコヘレトは意識しているかもしれない.
3.2.4 「100人」
ありえない数ではない.
3.3 「多くの歳を生きるであろう」

富豪に加えて長寿.世人のうらやむところであろう.たとえば,ラムセス2世.エジプト新王国の第19王朝の王.在位は,前1279年〜1212年まで67年の長さ.エジプト博物館によると,90歳を超える長寿で約100人の子を儲けたとされている.
3.4 「多いならば←存在するであろう年々の日々が」
すでに充分に長く生きたという長寿に加えて,さらに5年,10年と地上に存在する状況を,コヘレトは想定する.さらなる老年を手放しで喜ぶことができるだろうか?
3.5 「彼の魂が満たされないならば←そのよいことに」
この富豪は「そのよいこと」,すなわち子沢山と長寿と富に恵まれたにもかかわらず,それに満足せず,感謝することもなかった.こういう人の老年はどうなるだろうか?加齢には不都合がつきものである.身体のあちらこちらに障害が生じる.認識の力が弱くなる.家族に介護の手間をとらせる.
老年は一概に厭うべきことではないが,「よいこと」に不足することも,否定できない現実である.高級な老人施設に居住しているが,子どもたちがさっぱり会いに来てくれない.自分で自分の世話ができない.よくないことを言い出せば,山ほど出てくる.
よくないことどもの中によいことを探すのが,人間というものであろう.長寿であろうとなかろうと,子沢山であろうとなかろうと,富豪であろうとなかろうと,生命・生活・人生の質を問うことが,最も重要ではないだろうか?
「よく生きる」ことに留意する.「魂の世話」に専心する.ソクラテスが生涯を通じて求め続けた課題である.

3.6 「葬送が生じないなら←彼のために」
人もうらやむほどの大富豪が,葬送をしてもらえなかっただけではなく,野ざらしにされた事例が,過去の歴史にある.
共産主義ルーマニア時代のチャウシェスク大統領夫妻を,連想せざるをえない.

他者はさておき,葬送をしてもらえないということを,自分に引き換えて考えてみると,まことにわびしい.たとえ豪華な葬送をしてもらったとしても,死者への悼みはよそにして,遺族たちが醜い財産争いを繰り広げるという事態もある.
3.7 「私は言った」(アマルティ)
言った対象が書かれていない.コヘレトは,自分の魂に言ったのか,それとも彼の教えを聞いている人たちに言ったのか.両方であろう.コヘレトは判断を表明する.
3.8 「よい←彼よりも←流産が」

流産がよいとは,流産の悲しみを知る人にとって由々しいことである.下北半島の恐山に上った時,最初に私の目を引いたのは地蔵菩薩像の数々である.流産した子どもに対する親の悲哀を如実にあらわしている.中絶された胎児も含むであろう.
ただし,原語は「その流産」(ハ・ネーペル).定冠詞がついている.くだんの大富豪について言っている.流産に関する一般論ではない.そのような人物が生まれてこなかったならば,の話である.彼は生まれてくる価値があったのかという問いかけである.
4
כִּֽי־בַהֶ֥בֶל בָּ֖א וּבַחֹ֣שֶׁךְ יֵלֵ֑ךְ וּבַחֹ֖שֶׁךְ שְׁמֹ֥ו יְכֻסֶּֽה׃
なぜなら,蒸気の中でそれ(or 彼)は来た.そして闇の中でそれ(or 彼)は行くであろう.そして闇の中でその(or 彼の)名前は覆われるであろう.
ὅτι ἐν ματαιότητι ἦλθεν καὶ ἐν σκότει πορεύεται, καὶ ἐν σκότει ὄνομα αὐτοῦ καλυφθήσεται,
なぜなら,からっぽの中でそれは来た.そして闇の中でそれは行くであろう.そして闇の中でその名前は覆われるであろう.
4.1 MTにLXXはほぼ完全に一致している.
4.2 「蒸気の中でそれ(or 彼)は来た」
4.2.1 「蒸気の中で」
「蒸気」(ヘベル)は「からっぽ」ということ.LXX「マタイオテース」も同じ意味.「無駄に来た」,すなわち生まれたけれども無駄だったとも解釈できるし,あるいは「束の間だけ来た」,すなわち生まれたけれどもすぐに死んだとも解釈できる.いずれにしても,残念な出産だと言っている.
4.2.2 「それ(or 彼)は来た」
3人称単数.「それ」,すなわち死産が来たともとれるし,あるいは「彼」,すなわち大富豪となるべき人が来たともとれる.いずれにしても,同じである.
4.3 「闇の中でそれ(or 彼)は行くであろう」
「闇」(ホシェフ)とは,おそらく死の闇.死んで生まれたこと,あるいは生まれたけれどもすぐに死んだことを,そのように表現している.
4.4 「闇の中でその名前は覆われるであろう」
流産の子どもは名前をつけてもらえない,とも解釈できるし,あるいは誕生の前から,無事出産を期待して,胎児に名前がつけられていたけれども,流産だったので,その名前は御破算になった,とも解釈できる.せっかくの名前が,死の闇の中で覆われるのは,大きな落胆である.
5
גַּם־שֶׁ֥מֶשׁ לֹא־רָאָ֖ה וְלֹ֣א יָדָ֑ע נַ֥חַת לָזֶ֖ה מִזֶּֽה׃
太陽をさえそれは見なかった.そしてそれは知らなかった.安らぎ(がある)←これ(流産)に←それ(子沢山・長寿の人)よりも.
καί γε ἥλιον οὐκ εἶδεν καὶ οὐκ ἔγνω, ἀνάπαυσις τούτῳ ὑπὲρ τοῦτον.
太陽をさえそれは見なかった.そしてそれは知らなかった.安らぎ(がある)←これ(流産)に←それ(子沢山・長寿の人)よりも.
5.1 MTにLXXは,逐語的に一致している.
5.2 「太陽をさえそれは見なかった」
「生きる」ことの「い」すら経験しなかった.
5.3 「それは知らなかった」
「知らなかった」の目的語が明示されていない.意識がなかった,ともとれるし,あるいは何かを知らなかった,ともとれる.後者であるなら,何かとは何か?仏教では「生」の実相を,苦(ドゥッカ、dukkha)と言う.ドゥッカは,思い通りにならない苦しみである.生・老・病・死の四苦,あるいはさらに四つを加えて八苦という.すなわち,愛別離苦(あいべつりく、piyehi dukkha - 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ.愛する者と別離すること),怨憎会苦(おんぞうえく,appiyehi dukkha- 怨み憎んでいる者に会う苦しみ),求不得苦(ぐふとくく,yampiccha dukkha- 求める物が思うように得られない苦しみ),五蘊取蘊(ごうんしゅく,pañcupādānakkhandhā dukkha,五蘊盛苦(ごうんじょうく)とも.五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ.

この世に誕生した人は,ドゥッカの苦しみに必ず会わなければならない.あなたもわたしも例外なしにである.流産の子どもはそれに会わないで済む.
苦の消滅,苦からの救済.それこそ仏教が切に求めたことである.初期仏教は,一つの答えに到達した.それを四聖諦(聖なる四つの真理)という.苦諦(苦という真理)・集諦(苦の原因という真理)・滅諦(苦の滅という真理)・道諦(苦の滅を実現する真理).サンスクリット語で,苦の滅を「ニルウァーナ」という.漢語の「涅槃」はその音写.


5.4 「安らぎ(がある)←これ(流産)に←それ(子沢山・長寿の人)よりも」
「安らぎ」(ナハット)は,ニルウァーナに該当する.どうしたらナハットを実現できるかという方法については,今までのところコヘレトは明確なことを語っていない.
6
וְאִלּ֣וּ חָיָ֗ה אֶ֤לֶף שָׁנִים֙ פַּעֲמַ֔יִם וְטוֹבָ֖ה לֹ֣א רָאָ֑ה הֲלֹ֛א אֶל־מָקֹ֥ום אֶחָ֖ד הַכֹּ֥ל הוֹלֵֽךְ׃
そしてもし1000年を二回生きたなら,そしてよいことを彼が見なかったなら,一つの場所にすべての人は行くのではないか?
καὶ εἰ ἔζησεν χιλίων ἐτῶν καθόδους καὶ ἀγαθωσύνην οὐκ εἶδεν, μὴ οὐκ εἰς τόπον ἕνα τὰ πάντα πορεύεται;
そしてもし1000年の繰り返しを生きたなら,そしてよいことを彼が見なかったなら,一つの場所にすべてのものは行かないということがあろうか?
6.1 MTにLXXはほぼ完全に一致している.
6.2 長寿ではない
ただし,コヘレトは長寿を無条件でほめそやしていない.人生の尺度は長さではなく,質であることを示唆している.人はみな死ぬ.だからこそ生きることは,かけがえもなく尊い.その貴重な人生をどのようによく生きるべきだろうか,一緒に探求しましょう.そのようにコヘレトは私たちに呼びかけている.
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